「人生はドラゴンボール」 養老孟司先生が東大時代の悩みを語った発掘インタビュー

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 養老孟司さんが、悩める若い人に向けてわかりやすい言葉で語りかけたロング・インタビュー。収録されているのは、自身が編集に携わった、ムック『養老先生と遊ぶ』(2005年刊行)だ。

 旧知の編集者を相手に、対人関係が苦手だった青春時代、苦痛だった組織人時代についても赤裸々に語っている。東大に勤務している頃には、毎晩ウイスキーのボトルを空けていたような時期もあったというのだ。

 そこからどう脱したか。いままさに「壁」に当たっている人には励みにもなるのではないだろうか。刊行から時間が経ち、現在は入手困難となっているムックからの発掘インタビューをお届けする(一部、原文に改行など修正を施しています)。

 ***

いろんなことができ始めたのは中年になってから

――対人関係は苦手とはいっても、医者になろうとされたわけですよね?

 母親が医者でしたからね。最初は虫を専門にしようと思ったんです。でも、調べたら、虫が思う存分できそうだったのは、九州大学だったんです。それを母親に言ったら、「そんなに遠くに行くのはやめろ」と大反対でした。父親はぼくが4歳のときに死んでいましたしね。

 そこまで言われたら、まあ、虫はいつでもできるかなあ、と思ったわけです。その後、大学をやめる60歳近くまで、できなかったけどね(笑)。

 それで、医者は医者でも、精神科医になろうと思ったんです。だけど、希望者が多くて、クジに外れちゃいました。そこで、考え直したんです。これは臨床を選ぶな、ということだなあと。だから、大学院に行くことにしたんです。

 時代は今と違っていてね、昭和30年代、右肩上がりの時代だったんです。だから、やってみて食えなくてもなんとかなるだろうっていう腹です。「流れ」ですね。
(略)
「スルメを見てイカがわかるか」と何度も解剖の意味を問われ続けて、60歳すぎて、答えが出ました。「スルメを作っているのはおまえたちだろう」って。生きている人間を「情報」としてしか扱ってないんだから。(注:養老氏の専攻している解剖学について、「死んだイカ=スルメをいくら見ても、生きているイカのことはわからないだろう」という類の疑問をぶつけられた経験について語っている)

――60歳まで答えが出ないことがあるんですね。

 そうですよ。そんなに簡単にはいかないですよ。それって悪いことではないんですよ。むしろ逆です。なにかをしていくときに、簡単じゃつまらないじゃないですか。

 比叡山の千日行(せんにちぎょう)ってあるでしょう?

 あれですよ。修行なんです。解剖は修行でした。絵描きとか彫刻家っていうのは、絵とか彫刻とか形になるからわかりやすいよね。論文がその形かというと、あれは、言語にまとめる、ただの「情報化」の作業ですしね。

「なんで解剖なんてやるの?」って言うけど、修行というのは、やった自分こそが作品じゃありませんか? 千日行なんて、山の中を歩くそのこと自体が世の中の役に立つわけじゃないでしょう。それ自体に意味があるというよりも、それをやったその人にとって意味があるということです。だから「修行」だと思うとね、いろんなことができますよ。

 本気で業績をあげようなんて思っていなかったせいでしょうけれど、いろんなことができ始めたのは中年になってからです。昔から、母親にも親戚にも、「あんたは長生きしなくちゃ損だよ」といわれてましたけど(略)。

――お母さんは95歳まで長生きされたんですよね。それを考えると、人生の先が長いですね。

 そうそう。覚悟しろっていうんだ。

――誰に言っているのかわかりませんが……先生はしつこいタイプですね。

 追求型と言ってください。人生は「ドラゴンボール」なんです。

――マンガの「ドラゴンボール」ですか?

 あの話はどんどん未知の世界に出かけて自分がバージョンアップしていくでしょう? 結果がわからない。あれを読んだり見たりしている子供のほうが、大人よりもよっぽどいろんなことをわかっているんじゃないかな。

 人生は、マラソンになるもんなんですよ。人によって結果はわからないから、ぼくみたいに解剖を「やれ」とは誰にも言えないけれど。これをやったらこうなるよ、なんていう因果関係は言えませんからね。

東大をもっと早く辞めればよかった

――今までの人生で後悔をしていることはありますか?

 なし。後悔は、しません。起こった事はしょうがないことでしょう。でも、上手にいいほうに変えることはできます。大学の人事なんて見ているとつくづくそれを思いました。だれかがあるポストにつくとする。そうすると「なんであんなヤツが」と大モメに揉める。それよりも、決まったことを受け入れて、こうしよう、と決めて行動するほうがいいんですよ。だから、人事なんてものはいちばんの苦痛のタネでした。もっと気の利いたことをできるだろうに。
(略)
 これはもうモタないなあ、と思って東大を辞めることを決意したのが55歳のときでした。片付けや引き継ぎで2年延びて57歳で辞めました。辞めた当日は、日差しが明るく見えて周囲の輝きが違ってましたよ。もっと早く辞めればよかった。会社でも大学でも、とにかく組織が合わなかったんです。

 遊牧民タイプかな。夕方になるとちょっと寂しくなったりします。チベットを歩く夢みたり、ブータンにはこんなことがあるだろうかと考えたり。言わせてもらうと、ロマンチストなのかもしれませんよ(笑)。

――ロマンチストの解剖学者、ですね(笑)。以前の先生をご存じの方からすると、今は人の話を聞くようになったそうですね。

 そうなんですよ。10年前まではひどかったらしいんです。自分ではわからないんだけど、人の話を聞かない嫌なやつだったみたいで、10年以上前にあった人には全員に謝っておきたいね。そういう人がいたら、謝っておいてください。ぼくも変わったんでしょうね。

毎日死体を見ていると「大丈夫、自分も死ぬんだな」と思う

――大学を辞める頃にがんを患ったという噂を聞いたのですが……?

 大学を辞める頃に、肺に影が見つかったんです。「疑いがある」というんで、CTの予約の空きを待っていた1週間は、まじめに死ぬことを考えました。勤めもクソもない、仮にガンだったらもう死ぬんだ。そう考えたら楽になりました。

 1週間後の検査で、ただの昔の結核の影だったということがわかったんですけどね。でも、この結核の影はぼくへのプレゼントなんだと思ったんです。

――そのおかげで東大を辞める決心がついたということですか?

 それもあるし、本当に「生きる」ということを考えましたからね。

――自殺を考えたことというのは、ありましたか?

 ありませんよ。

―― 一度も?

 大丈夫ですよ。

――大丈夫とは?

 毎日死体を見ているとね、「大丈夫、自分も死ぬんだな」と思うわけなんです。どんなに崖っぷちに立ったとしても、自殺する人の気持ちはわかりません。慌てなくても死ぬんだから。死亡率はだれだって100パーセントですから。

 そんなことにはもっと早く気づくべきだったと思います。

 昔はなにを気にしていたんでしょうね。全部忘れちゃった。

一晩にウイスキーを1本空けることも毎晩のことでした

 お酒を今はまったく飲まなくなりました。昔は、相手がいれば、ストレスを解消するために飲んでいたんです。一晩にウィスキーを1本空けることも毎晩のことでした。お店の人から「飲みすぎだよ」って注意されてましたからね。40代がいちばん飲んでいましたね。外部とのつきあいがはじまって、そのときに媒介になってくれたのが酒だったんです。しゃべれない自分でも、お酒があると他人としゃべれるようになったから。

 でも、今は要らなくなりました。お酒のかわりに、猫がいればじゅうぶん。

 ***

 ここで触れている猫が「まる」で、その後テレビ出演などを通じて人気者となっていくが、一昨年に旅立った。養老さんの精神を安定させるのに重要な役割を果たしていただけに、新著『ヒトの壁』にはまるを失った悲しみが哀切あふれる文章でつづられている。

デイリー新潮編集部

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