「あの壊し屋にはほとほと疲れる」 故・海部元総理の辛辣な「小沢一郎」評

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海部総理、小沢幹事長

 9日に訃報が伝えられた海部俊樹元総理大臣については、政界から人柄や実績をたたえる声が次々と寄せられた。ある人は「政治改革」への実績を、またある人は海上自衛隊掃海艇のペルシャ湾派遣を、そしてまたある人は温厚な性格を、それぞれの言葉で称賛している。

 海部氏と縁が深かった大物政治家、小沢一郎氏も当然のごとくコメントを発表した。自民党時代のみならず野党時代にも政治活動を共にした「同志」としては当然だろう。

 小沢一郎(事務所)のツイッターには、次のようなコメントが掲載されている。

「海部先生には幹事長としてお仕えし、日々共に難しい問題と格闘していた当時が思い出されます。先生は常に国民を第一に思いやる温かい心を持った偉大な政治家でした。雄弁でユーモアセンスも抜群で、誰からも愛されました。いつもその人間性に魅了されていました。心からご冥福をお祈り申し上げます。」

“弔辞”としては穏当で、まったく不思議はないものの、両者の関係を知る人は違和感を抱くかもしれない。もっと踏み込んでいえば空々しく感じる方もいるかもしれない。少なくとも、当の海部氏がこれを聞いたら、どう思うか……。

 というのも海部氏が政治家人生を振り返った著書『政治とカネ 海部俊樹回顧録』には何カ所か小沢氏についての記述が見られるのだが、いずれも相当手厳しいものなのだ。以下、同書から抜粋・引用しながら海部氏の小沢評を見てみよう。

 前回の記事でお伝えした通り、党内の複雑な力学によって海部内閣は発足した。この時の自民党幹事長が小沢氏である。幹事長は総理総裁を支える、というのがタテマエではあるのだが――。海部氏は当時をこう振り返っている。

「当時、私が58歳、小沢氏47歳。

 海部内閣は、最大派閥、竹下派との微妙なバランスの上に成立した政権だ。へたをすれば、内閣の使命である政治改革が骨抜きになってしまうし、強情にすぎればそっぽを向かれる。

 小沢氏のことは個人的には知らなかったが、金丸氏から幹事長にと推薦された時は、願ったり叶ったりと思った。彼は、金丸氏はもとより田中角栄氏からも寵愛を受けていたから、小沢氏を押さえておけば、奥の院まで話が通ると踏んだのだ」

「軽くてパーがいい」発言

 この当時の小沢氏の発言で有名なのが、「担ぐ御輿(みこし)は、軽くてパーなヤツが一番いい」である。

 この場合の「御輿」とは海部総理のこと、とされていた。つまり彼は総理大臣なんて「軽くてパー」なほうが都合がいい、と言い放ったことになる。これに対して海部氏はさすがに見逃せなかったようで、本人に問いただしたのだという。

「人づてにこの件を聞いた私は、彼(小沢氏)に直接聞いた。

『言ったのかい?』

 すると彼は、しゃあしゃあと、

『言った憶えは断じてない。記事を書いた記者を呼びつけましょう』

 と、凄んで見せた。

 もちろん、私はそんなことはしなかったし、要は、首相と幹事長の間柄として、腹に溜めたままにしておきたくなかっただけのことだ。真相はどうでもいい。上に立つ者は、それくらいは飲み込んでしまわないといけない。(略)

 『海部首相は猿、小沢幹事長は猿回し』といった構図の風刺画が、一度ならず新聞に掲載されたものだ。馬鹿馬鹿しくて腹も立たなかったが、実際の小沢氏は、総理の指令に存外素直にしたがう人だった。

『最後は、総理が決めることですからけっこうです。わかりました、そうしましょう』

 そう言った時の彼は馬力もあるし、上司の私にとっては、使い勝手の良い頼りがいのある部下だった」

どうしようもない性癖

 どうやらこの頃までは、少なくともまだ表向きの関係は悪くなかったようだ。しかしその後、東京都知事選での失敗を理由に小沢氏は突然幹事長を辞任してしまう。小沢氏が強引に擁立した候補者(磯村尚徳氏)が落選した責任を取るというのだ。

「驚いたことに、小沢氏がいとも簡単に幹事長辞職を言い出したのである。

 表向きの理由は、『都知事選の責任を取る』。その他にも彼は、湾岸戦争における人的協力の必要性(小沢一郎の「普通の国」論)や、政治改革のためにあえて幹事長の職を辞し捨て身で事に当たりたい旨を、私に語った。

 私は、長時間さしで話し合い、慰留したが無駄だった。小沢幹事長は、『政治改革法案だけは何がなんでも通す』と言い残して去って行った。

 しかし結局、政治改革に関して、この時彼は何もやらなかった。直後に狭心症で倒れたから、健康上の問題で『やれなかった』のかもしれない。が、私は、『やらなかった』のだと思う。その後の動きや悪態のつき方を見ればわかる。

 小沢幹事長は、辞める必要がない場面で逃げた。小沢一郎という政治家の『どうしようもない性癖』を、私が目の当たりにした最初の時だった」

 小沢氏はこのあと仲間を引き連れて自民党を離党する。さらにまったく別の理由で海部氏も離党する。海部氏によれば当時、社会党との連立が許せなかった、とのことだ。その後、あれこれ紆余曲折の末、海部氏が党首、小沢氏が幹事長という体制で、「新進党」が結成される。当時の心境を海部氏は率直につづっている。

「『逃げた幹事長』と2度目のがっぷり四つ。この組み合わせに、疑問を抱いた方も多かっただろう。

 正直言って、この時はもう彼と、腹の底から信頼し合う関係を築こうとは思わなかった。『期待値を高めておいて大きく翻る人』という過去の事実が、すでに私の頭にインプットされてしまっていたのだ。

 だが、『健全な新与党を作りたい』という周囲の声はとても熱く、また、小沢氏を警戒する声も大変強かった。

『海部さん、あなたが先頭に立ってくれ。小沢にはついていけない』

 何人もの仲間からそう求められても、当初、私は固辞し続けた。けれども、それではせっかくのものも船出しなくなってしまう。逃げたのでは、政治家として無責任だ。それに、私には海部内閣で燃焼し切れなかった心残りもあり、支持率の高さを思い出すにつけ、今『ひとたび』の思いが湧いてきた。小沢氏と、彼を警戒する人々との接着剤になり、政権能力のある新党を作り政治を立ち直らせよう、そう腹をくくり、私は新進党初代党首になった。

 小沢幹事長と再び組むにあたり、彼の強引な資金集めを、党首として厳しく監視しようと肝に銘じた。だから新進党では、たとえば選挙時の公認料といっても、100万円からせいぜい300万円で、びっくりするような額は出せなかったし、また出さなかった」

「お前、またか」

 当時はまだまだ「非・自民」への期待は高かった。新進党は躍進を遂げる。1995年の参議院議員選挙では、比例区で自民党を上回る票を獲得するほどの勢いであった。

「党内は、この勢いなら近い将来に政権交代の夢が叶うと高揚感に包まれた。私は、自分の役割は終わったと判断し、次の党首選には出馬せず、希望をもって次世代に党の運命を託した。

 95年12月、党首選の結果、小沢氏が新進党党首に指名された。

 ところがその頃から、小沢氏との確執で、党員たちが櫛の歯が抜けるように離党していった。彼の問答無用なやり方、会議に出ないこと、密室政治、人を呼び出す傲慢さ、反対派への報復人事などが原因だった。思えば、小沢氏ほど側近の出入りが激しい政治家もいない。彼から人が離れていくのは、どれだけつきあっても、実感や信頼感を得られないからだ。『この人は計算ずくなのでは』という不安が、常につきまとってしまう。つまり小沢氏は、誰にとっても心の通い路を作れない相手なのだ。

 新進党は、個性、育ち、能力、経験がまったく違う者たちの寄り合い所帯だった。そこに小沢党首が、『黙って言うことを聞け』と言わんばかりの純血主義で事をかまえる。するとみんなが嫌になって、良質な人々がだんだん出て行く。離れた奴が悪いのか、放した小沢氏が悪いのか。(略)

 97年末。小沢氏が党首第2期目に入り、さぁこれからという局面で、またしても“唐突に”新進党の解党を宣言した。この時、彼はいつもの純血主義で、新進党の中に旧公明党員がいると、どうのこうのと言い出して、それで結局、公明党出身勢力が離脱して行った。なぜ、あのタイミングであえて旧公明系にくさびを入れたのか、未だに私は理解に苦しむ。新進党は、文句を言わずにグッと我慢してみんなでやっていけば、いずれ政権が取れたはずだ。それなのに、小沢氏は自ら喧嘩を売った上、『このままではジリ貧になる。それなら解党だ』と極端に走ってしまった。

 幹事長辞任に次いで2度目の逃亡。あれには私も、『お前、またか。おかしな奴だな』としか言いようがなかった……。

 こうしてこと志に反し、衆参214名でスタートした新進党は、3年余りで自壊した。求心力を発揮できなかった責任の一端は私にある。この場を借りて、改めてみなさんにお詫び申し上げる」

 ここで素直に頭を下げるあたりが、多くの人が好感を持った海部氏の人柄のあらわれだろうか。しかしながら、小沢氏との縁はまだ続く。新進党解党後、海部氏は無所属議員となったのだが…‥。

「そんなある日、永田町の事務所に戻ると、小沢一郎氏が廊下に立って待っていた。小沢党首の自由党が、自民党と『自自連立』に合意した1998(平成10)年晩秋のことだ。アポも取らず、しけた顔をして、秘書もなくひとりきりで。

『どうした?』

 と私が問うと、小沢氏は、

『もう一度ご指導願えませんか。いつまでもかたくなに無所属とおっしゃらず、どうか力を貸してください』

 と、実に謙虚に頭を下げた。しおらしくて、いつもの彼とはまったく違っていた。

 人間、妙なことをされると、妙な気分になるものだ。甘いと批判されればそれまでだが、レッテル主義ではいけないし、私は、彼も苦労して変わったのだと判断した。

 かく言う私自身も月日が経つにつれて、法案や予算案を提出できない無所属という立場の限界を感じていた。また本音を言えば、新進党で弓折れ矢も尽き疲れ果ててもいた。しかし、そんなことでは無責任だと、自分を責めたり鼓舞したりしていた時期だった。私は、小沢氏の話を聞きながら、新進党の責任を痛感しつつ、自分の持ち場で連立与党に協力していこう、そんな気持ちに傾いていった。

 政権に対しては、真実色気も欲もなかった。だがこの時点で、自民党復党を視野に入れていなかったと言えば嘘になる。私は、小沢氏の提案、つまり自由党の最高顧問を引き受けることにした。

 ところが、連立に参加して1年もたつと(2000年)、またまた小沢氏が連立離脱を言い始めた。政権が安定してきたので、存在感がなくなると考えたのだろう。そういう時、彼は政策論争をふっかけたりする。頭の良い人だから、理論構成などはなるほどしっかりしている。しかし、悲しいかな、その能力を「壊す」ベクトルにもっていってしまう『癖(へき)」があるのだ。

『またやったな、あぁまたか』と思いながらも、私は『今度ばかりはそうするな』と説得した。けれども、『それでは相手になめられてしまう』というのが小沢氏の結論だった。

 小沢自由党は連立政権から離れ、私は彼と袂を分かち、衆参26名から成る保守党(党首・扇千景、最高顧問・海部俊樹)を結成。自民党、公明党とともに連立与党の一端を担った(2000年4月)。連立離脱を巡る小沢氏との党首会談直後に、小渕恵三総理が倒れて帰らぬ人となったため、周囲は『小沢が殺した』と物騒なことをささやいたが、なにはともあれ、これが私と彼の最後となった。

 あの『壊し屋』に関わるとほとほと疲れる――三度(みたび)、小沢一郎と交えた私の率直な感想だ。人の陣地に手を入れて、誘惑してその気にさせて、壊す。あの性癖は、死ぬまで治らないのではないか。業というか、あそこまでいくと、もう病としか言いようがない」

 このあと、小沢氏は民主党で政権交代を実現するものの、またしても党を割ってしまったのは記憶に新しいところだろう。その後、野党は長い冬に突入してしまう。

 何度も煮え湯を飲まされた末の「あの性癖は、死ぬまで直らないのではないか」という海部氏の結論は正しかったということか。

デイリー新潮編集部

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