海部元首相が「国のために死ぬ覚悟を決めよ」と言われた瞬間 本人が明かした総理就任までの生々しいドラマ

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 今月9日、海部俊樹元総理大臣が亡くなっていたことが伝えられた。第76代内閣総理大臣。

 中年以上の方であれば、海部氏が総理になった時のことをなんとなく覚えていらっしゃることだろう。控えめに言ってもかなり唐突な印象を受けた国民が多かった。それまで総理総裁候補として注目されることがほとんど無い存在だったからだ。

 これは故人を貶めているわけではなく、当の海部氏にとっても総理大臣就任などというのは考えてもいなかったことで、青天の霹靂(へきれき)どころか「ただただ驚き」の事態だった。あくまでも党内の力学によって浮上した、というのが実情で、家族すら直前まで猛反対していたのである。

 海部氏が政治人生を振り返った著書『政治とカネ 海部俊樹回顧録』には、そんな当時の状況が生々しくつづられている。ここまで舞台裏を明かしているあたりは、海部氏の率直で正直な性格のあらわれかもしれない。以下、同書から抜粋、引用してみよう。

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話はついた、総裁は君だ

 修羅場、人間の本性、一国の首相という権力に渦巻く欲望……あれは、まさにこの世の縮図を見た11日間だった。

 1989(平成元)年7月23日。宇野宗佑内閣のもと闘った第15回参議院議員通常選挙で、自民党は惨敗した。リクルートコスモス社未公開株譲渡問題に、総理大臣の女性スキャンダル、消費税。大逆風の自民党は、結党以来初めて参議院で過半数を割り込み、土井たか子社会党党首は、「山が動いた」と満面の笑みを浮かべた。

 自民党の下野さえささやかれる中、選挙から6日後、次の総理総裁候補として、突然、私の名前が浮上した。

「お前、えらいことになっとるぞ。じいさんたちは本気だぞ」

 議員仲間や事情通と称する議員たちから、矢継ぎ早に連絡が入った。

 けれども私自身は、自分が総理になるとはまったく思っていなかった。そもそも、私は、三木武夫氏の流れを汲む河本派。弱小派閥のため出世コースから外れていたし、派閥の領袖でもなければ、党三役(幹事長、総務会長、政調会長)も経験していない。大臣経験だって、文部大臣2回のみである。政治家になった以上、誰もが首相を目指すものだが、それはあくまで夢。一国を舵取りする立場になど、そう簡単になれるはずもない。

 一方、主な有力議員は、軒並みリクルート事件に関与していた。竹下登首相退陣、中曽根康弘前首相は責任を取って離党。次と目された安倍晋太郎、宮澤喜一、渡辺美智雄らのニューリーダーは、自民党が定めた「1年間、もしくは次の総選挙まで党の役職を辞退する」という「けじめ」の対象となり謹慎中。

 党の実力者たちは、極端な世代交代を避けつつ、クリーンで国民的に人気の出そうな政治家を次期総裁にと考えた。その条件に、「当選10回、58歳、クリーン三木の愛弟子」という私の存在が合致したのだった。

「話はついた。君が受けないと大変なことになる。腹を決めろ。選挙に勝つにはお前だ」

 いよいよ噂の域を超えて、大派閥の重鎮である竹下、安倍、そして、金丸信の各氏が、私に直接説得を始めた。

 1974年、「椎名裁定」で首相になった三木氏は、「青天の霹靂」と発言したが、私の場合は、それをも超えて「ただただ驚き」としか言いようがなかった。

河本敏夫ではダメだ

 私はまず、派閥リーダーの河本敏夫氏と話し合いたい旨を三氏に伝えた。河本氏は当時78歳。リクルート事件に絡んでいない唯一の派閥領袖で、それまでに2度、総裁選に挑戦している。氏にとっては、最後のチャンスだった。

 ところが、三氏はきっぱりと言った。

「河本ではダメだ、選挙に勝てない。海部、お前が出なけりゃ話にならん。世間に行ってよく聞いてこい!」

 そうこうする内に、河本氏から、「朝ご飯でも食べませんか?」と電話が入った。

 翌朝、邸宅にひとりで伺うと、

「あなたがおやりなさい。今日、河本派の総会で、私の口から宣言しましょう」

 と、氏は、意外にもあっさりとそう語った。

 河本氏が出馬を断念した心情が、私には痛いほどよくわかる。

 話は少し脱線する。

 2010年1月、小沢一郎元私設秘書の石川知裕氏は、小沢氏の資金管理団体「陸山会」を巡る金の流れについて、「現金4億円の入った複数の紙袋を手渡された」と証言した。これを聞いた私は、「何袋だろうか」と即座に思った。というのも、「たとえば、デパートの紙袋であれば、1袋に入るのは、せいぜい2億円までであること」を、私自身が身をもって知っているからだ。

 あの頃の自民党総裁選は、大枚(たいまい)が飛び交っていた。その総裁選に2度出馬した河本氏も例外ではなく、誠に恥ずかしい話だが、河本派代貸しの私も各派に金を運んだのだ。嫌な仕事だったが、「政策を通すための潤滑油、必要悪」と割り切るしかなかった。

 政界では、「立たぬ札束」は端金(はしたがね)と言われる。金は、300万円積んではじめて「立つ」。三光汽船のオーナーだった河本氏は、「立つ金」を議員たちに気前よく配った。が、開票してみれば、あっちも裏切りこっちも裏切り。

「いったい、いくら金をばら撒けばいいのか。こんな政治ではダメだ。ならばいっそ、リーダー育成係に専念し、政治と金の問題に本格的に取り組もう」

 絶望を越えて、河本氏は、新たな使命感にかられていたのである。

高まる声に、頭の中は真っ白

 河本氏が私を総理総裁候補に認めると、今度は、同じ派閥の先輩議員や長老たちが忠告し始めた。

「最大派閥の竹下派に利用されているだけだ。つまらん、辞退した方が身のためだ」

 もちろん、私のためを思ってのことではない。要は嫉妬だ。私のような若造が、総理になるなど片腹痛いというわけだ。「利用される」、そんなことは、私にだってわかっていた。

 例外的に、先輩の田村元さんが、国会前庭で車を止めて下りて来て、

「海部君、良い話を聞いてきた。君には最高の舞台が来るはずだ。断ってはいけない。悪いことは言わないから、肚決めておけ。こんなチャンスは二度とないぞ」

 と言ってくれた。その場では握手をして別れたが、後年、衆議院議長となられた田村さんには、いろいろと忠告をいただいた。

 一方、当選回数が同等、あるいは若い政治家たちは、「この際、受けるべき」と前向きだった。

「この世界は、きれい事ばかり言って断ったりすれば、捨てられて二度と浮き上がれない。目の前にエサがある時に、ガバッと食いつけ。もたもたせずに前へ進め!」

 こうなると、「やれ」という意見と「やるな」という声と、何が好意で何が悪意か混沌としてくる。政界は怖いところだから、「やれ」と言った中には、「やって赤っ恥をかいて消えちまえ」という腹の人もいたし、「やれ」の裏には、「俺が応援したことを忘れるな。ポストを用意しておけよ」の意も含まれていた。

 朝も夜もなく、事務所や自宅に、日頃疎遠な人まで加わって次々と人々が訪れては、言いたいことを言う。

「すまんけど、少しでいいから寝かせてくれや」

 私の頭の中は、もう真っ白だった。

 けれども、いつまでも白くなっているわけにもいかない。

 周囲から矢のような催促が重なり、私は、念のために自分の政治献金を洗い出した。自性清浄心が身上の私だから、金に関して危ない橋を渡ったことは断じてないし、どこから流れ弾が飛んで来ても、「違う」と胸を張って言えるよう心がけてきた。ところが、調査の過程で、過去5年にわたりリクルート社から、合計1440万円のパーティ券購入や、政治献金、講演謝礼を受けていたことが判明した。

 明言するが、これらはリクルートコスモス未公開株とはまったく無関係な、すべて政治資金規正法に基づき正確に届け出た政治資金である。それでも、あらぬ誤解を避けるため、私は実力者たちにこの件を伝え、記者会見を開いて国民に説明した。おためごかしは真意ではないので、ありのままの事実を説明した。

 私の総裁候補という情勢は揺らがなかった。

 竹下派からは、橋本龍太郎氏の名も浮上したが、金丸氏を中心に反橋本の消火器が激しく働いた。私は、若手同士で腹を割って話そうと、橋本氏と、別に総裁候補の声があった河野洋平氏の三人で話し合う場を持った。

 河野氏は、「新自由クラブ」から自民党復党後、選挙の洗礼を受けていないことを理由に辞退。また、ふたりとも「残念ながら女性問題がある」と告白した。何しろ、宇野スキャンダル直後である。これはまずい。特に、橋本氏は、中国の公安関係の女性と関係があると報道されていた。国防に関わることだけに、慎重を期さねばならなかった。

 余談だが、後年自民党は、これを承知で橋本氏を総裁に据えている。それは、あの頃になると自民党ももうタマ切れで、他に人材がいなかったからだ。その時、私はすでに離党していたが、自民党としては、「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」といった心持ちであったろう。

「海部、お前は死ね」と、竹下登は言った

 暦は8月を迎え、日経平均株価は初の3万5千円台を記録。竹下派からは、橋本氏に続いて金丸氏や羽田孜氏の名も上がったが、結局、分裂を避けるため自派からの擁立を見送った。

 周囲の声は、次第に「やれ」ではなく、「やってくれ」に変わっていった。あの時、党員全員に共通していたのは、自民党政権が終焉するこの世の終わりのような危機感だった。新聞は、「海部俊樹は、第15代将軍徳川慶喜(よしのぶ)。自民党最後の総裁」と書いた。

 最後なら最後で仕方がない。ここはなんとしても、党を自浄してやり直そう。生まれ変わるために政治改革を懸命にやろう。私の気持ちは、徐々に総裁ポストを受ける方向に傾いていった。

「もう断っちゃいかんよ。党のため、お国のためだ。海部、お前は死ね。国のために死ぬ覚悟を決めよ」

 そんな頃、竹下氏が言った殺し文句である。竹下さんは、「言語明瞭、意味不明瞭」と言われた政治家だが、要所要所で、人がほろっとくることを実に上手に言う。

 私は、覚悟を決めた。

 恩師、三木先生の未亡人、睦子さんに報告に行くと、夫人は、

「海部さん、あなた気の毒ね。もう少し自民党がしゃんとしていたら、死に物狂いでおやりなさいと言うんだけれど。これじゃ、犬死にだわ」

 と、ぴしゃり。

 キナ臭さを感じたのか、普段は地元愛知に暮らす妻も上京して、

「あなたには、何遍だまされたらいいの。私は、そんな大それたことを考えて結婚したんじゃありません!」

 と、猛烈に反対された。

 その間にも、嵐のように人がやって来る。私は雑音を振り払おうと、妻を助手席に乗せて車のハンドルを握った。行き先は決めていなかったが、とにかく遠くへ行きたかった。走って、走って、走って、白馬高原に辿り着くと、そこで2泊した。

 最後の夜、私は妻に言った。

「俺も、政治家として死ななけりゃならんのだから、その前に精一杯のことをしたい」

「もう疲れたわ。今夜は寝ましょう」

 妻なりの了解のサインだった。

石原慎太郎も出馬して総裁選

 自民党は、長い間総裁選を行わなかった。良く言えば話し合い、悪く言えば馴れ合いである。ここでまた、密室から総裁を生んではいけない。

 総裁選には、私の他に、宮澤派が推す林義郎氏と、亀井静香氏らの自由革新連盟など、青嵐会の系譜に連なる議員の支持を受けた石原慎太郎氏が出馬した。石原氏はなんといっても、かつて参院選全国区で史上最高の300万票を取った国民的スターだ。正直脅威を感じたが、私は「多々ますます弁ず」で、議論を重ねた方が自民党のためになると思った。

 ただし実のところ、出馬時点で、竹下派の圧倒的支持を得た私の勝利は確定したも同然だった。

「絶対負けやせんから、えぇから安心してがんばれや」

 と竹下さんは言い、票読みの結果さえ教えてくれた。その辺りは、さすがに「一致団結・箱弁当」の竹下派である。

 三木武夫の天敵、田中角栄金権政治を継承した竹下派が後見役――この現実に関しては、実利主義で考えた。当時、派閥は隠然たる力を持っていた。大派閥にも属さず、潤沢な資金もない自分が、ひとりで立ったところで政治は変えられない。ならば、大派閥を利用して自分の政治をしようじゃないか。

 それに、私には「権力の二重構造」を、ある程度乗り越えられる自信もあった。私はそれまでに、議院運営委員長や国会対策委員長を務め、政治の難しさや厳しさを肌で学んでいた。どうしても通したい政策は、朝一番に寝込みを襲い、「頼む!」と誠心誠意頭を下げれば、余程のことがない限り相手だって「ノー」とは言わない。いざとなったら、竹下派の寝込みを襲えばいい。

 竹下派の他に、安倍派や渡辺美智雄氏率いる旧中曽根派も、私の支持に回ってくれた。安倍、渡辺両先輩としたら、役者は自分たちの方が上と思っていただろう。だが、ふたりともリクルート問題で出馬どころではなかった。恩義を感じさせつつ一歩引けば、やがて芽が出る、春になる。そんな心境だったにちがいない。

 一方、宮澤派は、林氏を推しつつも自主投票を決定した。宮澤喜一氏という政治家は、キャリアもあるし勉強も抜群にできるが、物を斜めに見る傾向がある。私が首相就任後、活字になった中で最も不快だったのが、氏のこんな発言だ。

「海部さんは、一生懸命おやりになっているけれど、何しろ高校野球のピッチャーですからねぇ」

 小馬鹿にするとはこのことで、これには普段温厚な私も頭に血が上った。しかし、ここでカッカとしたら元も子もない。飲み込み、腹に収めて、翌日には何も残してはいけない、と自らを戒めた。

第14代自民党総裁

 8月8日。私の名が、総理総裁候補に浮上してから11日目。その日、永田町の自民党本部8階大ホールに衆参両院議員が集い、総裁選挙が実施された。自民党総裁選の国会議員による投票は、「三角大福」で田中内閣が誕生して以来、実に17年ぶりのことだった。

 ちなみに、この選挙で竹下派は金を撒いていない。さしもの竹下氏も、この頃にはすでに金を使い果たしたというか、むしり取られたというか、そんな状態だったのだ。

 開票結果は、海部俊樹279票、林義郎120票、石原慎太郎48票。

 石原陣営は、立候補の締め切り直前に推薦人代表が交代し、定刻を大幅に遅れて届け出るなどしたあげく、意外に票が伸びなかった。石原氏は能力のある人だが、それだけに他人を傷つけるところがあったのかもしれない。

 午後2時少し前、両院議員総会長、原文兵衛氏の声が響いた。

「海部俊樹君が、第14代自民党総裁に決定いたしました」

 会場ほぼ中央の席にいた私は、立ち上がり壇上に向かった。一歩進むにしたがい、日本を背負って立つ立場に近づいていく。声をかける人、背中を叩く人、まるで相撲の花道だ。自分が勝つことは知っていた。知ってはいたが現実にそうなってみると、心臓は高まり、喉がカラカラに渇いた。

 私は、中学生で初めて弁論大会に出た遠い昔を思い出していた。緊張で身体中に電流が走ったあの日のように、私は自分に言い聞かせた。

「とにかく姿勢良く、堂々と、悠々と歩くんだ」

 自分が、金やダイヤでないことはわかっている。でも、銀なら銀、銅なら銅でいい。いくら粉々になってもたえず本質を失わず、俺なりの石でいよう。大衆の中に入り、訴え、「きれいで、わかりやすい政治」を実直にやっていこう。それより他に、日本の政治が瑞々(みずみず)しく蘇える道はない。

「荒削りでいたらぬところの多い青年ではありますが、誠心誠意、我と我が身のすべてをかけて力一杯やります!」

 1954(昭和29)年に早稲田大学を卒業し、第29回総選挙で29歳の衆議院議員になった私は、その29年後の1989年8月8日、自民党総裁に就任した。そして翌日、衆議院本会議で、正式に第76代内閣総理大臣に指名された。

デイリー新潮編集部