幸せに見える人は本当に幸せなのか? 毎日を無駄にしない「1行日記」とは(古市憲寿)

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「何もない日常こそ幸福だ」と言う人がいる。

 確かに、毎日のように何かが起こっている人からすればそうだろう。殺人事件に巻き込まれたり、余命いくばくもないと宣告されることに比べれば、何も起こらない日常は素晴らしい。

 だが本当につまらない毎日を過ごしている人は、日常から抜け出したくて仕方がないはずだ。僕自身、10代の頃は、平穏な日常を持て余していた。「何かしたい」とは思いながら、ただ時間だけが過ぎていく日々。文章を書いたり、絵を描いたりしても、それが何になるかもわからない。不幸でもなければ幸福も感じられない毎日。

 今から思えば、贅沢な時間だったとは思う。いくらでも本を読めたし、何百時間だってゲームができた。だけどあくまでも「今から思えば」。たまたまこうして現在、文章を書くことを仕事の一つにしているから、「あの頃が無駄ではなかった」と思えるけれど、それは偶然に過ぎない。

 秋元康さんは、1行日記を書くことを勧める。とにかく何でもいいから日記をつけてみたらという提案だ。「中尾さんに京都で会った」とか「『神曲』を読んだ」とか本当に1行で構わない。

 だけど続けているうちに、何も書くことのない日がでてくるかもしれない。1行日記のミソはここにある。本当だったら何もないまま終わるはずの日でも、日記をつけるために映画を観たり、本を読んだりしようと思えるのだ。

 結果、振り返った時に、365日が「何か」の日になる。10代の頃の自分が1行日記を知っていたら、もう少し有意義な時間を過ごせただろうと思う。

 有意義すぎて、国際金融機関に勤めるグローバルエリートになったものの、働き詰めで今頃バーンアウトしていた可能性もある。

 ここが難しい。時として、成功と幸福は一致しない。華やかな芸能人は、街を歩いていて、気になるカフェを見つけても、人目を気にして入店をあきらめるかもしれない。大富豪の家に生まれた人は、一生を資産管理に費やすかもしれない。

 誰からも幸せに見える人が、本当に幸せを感じているかはわからない。統計的にも、主観的な幸福と、客観的な幸福は一致しない。年収1億円の人が、年収100万円の人の100倍幸せとは限らない。豊かな先進国でも、自殺を選ぶ人は多い。

 重要なのは、自分にとって何が幸福なのかを理解することだと思う。「幸せは、お金ではなく心だ」といった話ではない。何が大切なのかは、人によって違うのである。だから幸せの基準が曖昧な限り、どんな生き方を選んでも、きっと後悔が残ってしまう。何が幸福なのかをわかっていない人生は、ゴールの見えない迷路を進むようなものだ。

 一方で、何が大切かを理解している人は、どんな場所にいても、人生の分岐点が現れるたびに、幸福への近道を選ぶことができる。

 幸福は、自分にとって何が幸せかを考え、定義するところから始まる。幸せな2022年になりますように。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2022年1月20日号掲載

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