内村航平 引退会見でも語られなかった「美しい体操」の基礎を作った3年間

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朝日生命の体育館で練習

 最後に、記者会見で語られなかったことに触れよう。

 内村といえば「美しい体操」が形容詞にもなっている。近年の採点基準では、1位を目指すなら、難易度を追求する必要がある。そのため、世界の流れはパワフルで高難度な演技に向かいがちだが、難しい技を追求しながらも「美しさ」の探求を決してやめなかった内村だ。

 その美しさへのこだわりは繰り返し語られたが、美しさを身に付けた原点がどこにあったかは、あまり語られていない。

 私が注目するのは、あまり語られない「幻の3年間」だ。

 あるテレビ番組でも、「中学3年の全国大会では最下位だった」と紹介された。その内村が高校を卒業し、大学1年の時にはロンドン五輪に出場し、団体・個人ともに銀メダルを獲得した。つまり、その3年間に内村は急成長し、その後の活躍の土台を築いたのではないか。

 高校時代、内村は両親の反対を押し切って上京。憧れていた塚原直也選手の練習拠点である朝日生命体操クラブの門を叩いた。体操は朝日生命の体育館で練習し、東洋高校に通った。

「ここにはアンドリアノフさんのメニューがありました」

 と話してくれたのは、同クラブの塚原千惠子さんだ。

「内村選手は高校の3年間、みっちりとロシアのメソッドで体操の基礎を身に付けたのだと思います」

 アンドリアノフといえば、塚原直也の父・塚原光男が活躍した時代、日本の最大のライバルだったソ連のエース。旧ソ連の崩壊とともに指導の場を失ったアンドリアノフは、塚原光男に請われて数年間、朝日生命体操クラブで指導に携わった。内村が上京した時はすでに帰国後だったが、そこには彼が残した練習メソッドがあったのだ。

 徹底的に基本を反復し、習熟した高校3年間が、その後の内村の美しい体操の基盤になったのではないかだろうか。

「やらされる練習」を体験した時期

 その3年間を内村は現役時代からあまり話そうとしない。

 その理由はいくつか推察される。

 ひとつは、あまり思い出したくない時代だからかもしれない。親元を離れた寂しさもあっただろう。体操を遊び感覚で楽しんでいた内村にとって、初めて「やらされる練習」を体験した時期だった。

 高校卒業を前に、内村は引き続きクラブに残って練習の本拠地にする道を選ばず、日体大に進学した。他の大学を勧めてくれた塚原夫妻の意に背いた心苦しさもあったかもしれない。

 そして、実は自分の体操技術の土台を作ったアンドリアノフのメソッドをあまり口外したくない意識もあったのだろうか。内村の体操を作り上げたのはあくまで自分自身であって、誰かの影響に束縛されたくない思いも強かったのかもしれない。

 塚原光男さんが言う。

「ロンダートの基本も、アンドリアノフの理論で徹底して身に付けたんです」

 ロンダートというのは、跳馬の踏み切り前に後転し、後ろ向きに踏み切って入る技。ロンドン五輪でもリオ五輪でも、個人総合の跳馬で内村はこのロンダートから入っている。

 すでに内村は、そうした基本を超えた、『ウチムラのメソッド』を練り上げているだろう。次の世代の少年少女たちに、「この方法で練習したら、体操が楽しくなる。どんどんいろんな技ができるようになる。技がひらめく発想も身につくぞ」という道筋を示してほしい。

 記者会見を見て、内村航平には競技選手にとどまらず、インフルエンサー、クリエイター、そして指導者の資質を感じたファンは大勢いただろう。内村の次の人生のステージが楽しみになった。

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部等を経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』など著書多数。

デイリー新潮編集部

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