奄美大島「ジュラシック・ビーチ」の危機に立ち向かう仏男性 運命を変えた“グーグル検索”

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 真っ白な砂浜が地平線の彼方まで続き、真珠貝のように輝く。緑深い山奥から巨大な川がゆっくりと東シナ海へと流れ、希少な魚が飛び跳ねている……人間の手で汚されることのない太古の自然。奄美大島の南方に位置するこの嘉徳浜(かとくはま)海岸(鹿児島県大島郡瀬戸内町)は、「ジュラシック・ビーチ」とも呼ばれている。2002年に、1億年以上前から地球に生息する絶滅危惧種「オサガメ」が発見されたことがその由来だ。

 2021年7月、奄美大島がユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界自然遺産に正式に登録された際には「奄美大島で人工物のない唯一の河川(A Last Free Flowing River)」として、この地にある嘉徳川が評価された。オサガメのほか、アマミノクロウサギ、アマミイシカワガエルといった希少生物が多く生息している。近くには約20人の住民が暮らす小さな集落のほか、縄文時代の遺跡もある。

 ジュラシック・ビーチの景観が、いま壊されようとしている――そんな話を奄美大島で暮らす写真家の友人から聞き、昨年末に現地を訪れた。【瀬川牧子/ジャーナリスト】

反対運動の旗手はフランス人

 ジュラシック・ビーチに訪れている危機とは、2015年から始まった鹿児島県による護岸建設である。浜の真ん中に、高さ6・5メートル、幅180メートルの、コンクリート製の護岸を建設しようというのだ。大きさにして3階建てのビルにあたる。総事業費は現在3億4000万円で、2023年度の完成を目指す。

 名目上は“台風で砂浜が侵食され、安全対策のため”の措置だが、生態系に与える影響は計り知れない(後述のとおり、その必要性も疑わしい)。一部の地元住民やサーファー、学者、弁護士らからなる複数の市民団体が反対運動や訴訟を連続的に起こしているが、事業の中止には至っていない。

 奄美空港から山道を車で走ることおよそ2時間。嘉徳浜海岸に到着して早々、

「気を付けて! 集落界隈で車を運転する時は、必ず20キロ以内で走らせてね。知らずと、トカゲ、カエル、昆虫などを踏んでしまうといけないから」

 と出迎えたのは、フランス国籍のジョン・マーク・タカキ(48=Jean Marc Takaki)氏だ。

「はじめてここを訪れたのは2010年4月。まず驚いたのは、この河口の広さ。その時は集落のすぐ横まで広がっていた(時間によって川は形を変える)。水に入って全身で遊んだよ! その時、割れ目から根が出ている植物の種を見つけた。恐竜の卵が割れているように見えて、僕は思わず“ここはジュラシック・パークだね”と言ったんだよね」

 彼は「奄美の森と川と海岸を守る会」のメンバーだ。サーファーにして護岸工事反対運動の中心的存在でもある。いまは嘉徳浜海岸のすぐ裏で暮らし、フランス語、英語、日本語を使い、嘉徳浜海岸の現状を伝える動画をネットで配信している。この海岸の問題は日本のみならず世界でも報じられているが、それは彼と仲間たちの取り組みによるものだ。

 友人たちは彼を、「『風の谷のナウシカ』のような人物」と喩えている(知り合いの間では「ジョン・マーク」との呼び名で親しまれているので、本稿もそれに倣いたい)。普段は日本語を完璧にしゃべるが、家では3匹の飼い猫とフランス語で会話しているそうだ。島内にはフランス語を話せる人がいないらしい。

 ジョン・マークは、フランス人の父と熊本県出身の日本人の母を持つ。首都パリで生まれ、18歳までフランスで育った。「子供時代の最大の楽しみは、パリの小学校の夏休み期間中に、熊本県にある母親の実家で遊ぶことだった。広い庭で従妹たちと一緒にカエル、トカゲなんかを捕まえて遊んだ。人生の原風景だったね」と当時を振り返る。母の実家は地元の名家だったらしい。

 そんな熊本とは逆に、パリでの生活は憂鬱だったそうだ。

「5歳の時から、ここは“監獄”だと思っていた。人間の作ったルール、コンクリートに固められた街並みなどが嫌だった。朝、アパートの窓から大人たちを見おろすと、信号を待つ間も、通勤のストレスでイライラしているのがわかった。僕はいつかこの監獄を抜け出し、自由な自然の世界に行くんだとずっと信じていた」

 それはやがて「人生そのものが監獄だ」という強迫観念となり、悩まされることになる。

「僕はパピヨン島の囚人だったのかもしれない。パピヨン島とは19世紀に存在した仏領ギアナの流刑地。囚人たちを囲む残酷な環境から“悪魔島”と呼ばれていたところで、誰も脱出はできない。僕は植民地支配の白人層に支配されてきた原住民のような気持ちだった。前の人生はそうだったのかもしれない」

 高校卒業後は米国ハワイ州の大学へ進学してプログラム・エンジニアを専攻したほか、心理学、人類学、生物学などの勉強にも夢中になった。そこを卒業すると、母の実家の熊本県に移り、親類のIT企業に就職。同時に、地元で英語やフランス語を子供らに教えたりして過ごした。その後、東京の企業に転職。パニック症状や恐怖症を治癒する独自のプログラミングアプリを開発したそうだ。

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