なぜ皇室崩壊の危機は訪れたか 「開かれすぎた皇室」が招いた眞子さんの結婚トラブル

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皇室の民主化

 およそ皇室への無理解が甚だしい若者がたやすく皇族に近づき、あげく結婚してしまうという現実。眞子さんは20年11月に公表した「お気持ち」の中で、結婚について“自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択”とまで言い切っていた。

「自らの意志を貫くべく、もっぱら公より私を優先したといわれるゆえんですが、実際に秋篠宮さまも20年のお誕生日会見で憲法を持ち出され、“本人たちがそういう気持ちであれば、親としては尊重するべきものだと考えている”と述べられている。それでも皇族のご結婚は、やはり家同士の結びつきが重い意味を持つ。結婚自体は止められませんでしたが、せめてもの歯止めとして秋篠宮さまは、一連の儀式を取り止められたのです」(皇室ジャーナリスト)

 家父長制にもとづく家制度に支えられた戦前とは一変、戦後は家同士から個人間の結婚へと世間の意識は変化をみせ、令和の現在、お二人の結婚を“当人が愛し合っているのだから構わない”と捉える若い世代も多かろう。が、そもそも皇族と一般人では拠って立つ基盤が大いに異なり、同一に論じるのは失当であろう。

 今回の結婚問題について、

「“皇室の民主化”が急激に進み過ぎてしまったことと関係があると思います」

 そう指摘するのは、皇室に詳しい麗澤大学の八木秀次教授である。

「例えば東日本大震災では、『国民と共にある皇室』が非常にうまく機能しました。上皇ご夫妻が膝をついて被災者を励まされるお姿は、悲しみや不安、絶望感を抱く日本人を勇気づけ、“皇室は我々と共にある”と、多くの国民が意識したことでしょう。ただし、皇室と国民との距離が近づくことは決して悪いことではないとはいえ、おのずと加減というものがあるはずです」

“開かれた皇室”

 戦後、民主主義が成熟していくにつれ、急速に広まっていったのが、いわゆる「開かれた皇室」という考え方である。実際にどう開かれていったのかといえば、八木教授が続けて、

「この言葉自体はメディアによる造語ですが、“開かれた皇室”は上皇后美智子さまがお若い頃に体現されてきたものという意味合いを強く感じます。かつて上皇さまの教育係を務めた経済学者の小泉信三は、米国占領下で皇室の民主化を進めました。当時の皇太子さまと美智子さまとのご結婚もその一環で、世間では恋愛結婚ということになっていますが、小泉が陰でお膳立てしていたのは明白。それまではごく限られた一定の範囲で妃を選んでいたところ、民間人との結婚がセッティングされたのです」

 ご結婚が決まったのは1958年、国民は民間出身のお妃に熱狂し、テレビの普及をうながした。いわゆる「ミッチーブーム」が起きたわけだが、

「民間人との結婚によって皇室をより国民に近い存在にしようとしていた小泉ですが、こうした民主化の動きを、三島由紀夫は『週刊誌的天皇制』と、辛辣に批判しました。三島は68年、早稲田大学で行われた討論集会で『(小泉は)国民と天皇との関係を論理的につくらなかったと思うのです。というのはディグニティ(注・威厳)をなくすることによって国民とつなぐという考えが間違っているということを小泉さんは死ぬまで気がつかなかった』と語っています」(同)

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