「大屋政子」の毀誉褒貶 資産は300億円、“おとうちゃん”が再生した帝人の手のひら返し

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「おとうちゃん」の威光

 大屋晋三といえば、必ずついて回るのが夫人の政子だ。「現代の女傑」「女実業家」「北条政子の再来」と毀誉褒貶が激しい。

 冒頭の「阿修羅の人生」を語るインタビューで、実業家に転身した理由を政子自身が語っている。

《おとうちゃん、結婚したらいっぱい愛人さんがいたのよ。それで自殺しようと思った。それで愛人さんから何から何まで養うためにお金いるから働きだしたわけよ。おとうちゃんに「後妻の虚栄心」なんてよく言われたなあ。でも帝人社長夫人って呼ばれても、ウチ、おとうちゃんからお金もらったことなかったし。働かなアカンと思ったんや》

 晋三は1956(昭和31)年、政界を引退し、帝人の社長にカムバックした。業績不振の帝人の再建に成功し、1980(昭和55)年3月9日に85歳で亡くなるまで社長として君臨した。生涯、現役の社長だったわけだ。

 一方、政子はどうだったか。「大屋晋三=帝人」をバックに政子の事業も最盛期を迎える。1958(昭和33)年、五菱土地建物を設立して社長に就任。1960(昭和35)年に四条畷(しじようなわて)カントリークラブ、1972(昭和47)年には奈良で室生ロイヤルカントリークラブなど名門ゴルフ場を経営。「おとうちゃんのため」に建てた帝塚山病院は、当時、西日本で初めて人間ドックを兼ね備えた施設だった。

低下する社員の士気

 この時期、政子が最も情熱を傾けたのは若い頃から愛してきたバレエやオペラだった。自らの名を冠した世界的なバレエコンベティションを開催。政子の文化活動は海外で評価されたからだろう、1979(昭和54)年にはフランスの芸術文化勲章コンマドール章勲一等を受賞した。

 何よりも世間を驚かせたのが大豪邸であった。大阪一の高級住宅街・帝塚山に建てられた700坪の地上3階・地下2階の建物である。部屋は全部で14あり、キッチンを完備した部屋が7つもあった。寝室の広さ250畳。「ベッドにまで行き着くのに2分はかかる」と豪語した。その総資産は300億円と噂された。

「おとうちゃん一人ぐらいなら、いつ帝人を辞めても、うちが養えるわ」

 政子は事業家として自信満々だった。

 政子は帝人の個人筆頭株主で、自他ともに認める晋三の側近のNo.1だった。幹部や役員の人事にまで政子の影が色濃く投影され、帝人社内には「夫人に取り入れば出世できる」と考える不遜(ふそん)な輩(やから)が増えた。「夫人ににらまれたら、もうおしまいだ」という空気さえあったというから、当然のことだが、心ある社員の士気は低下の一途だった。

「大屋の代わりを私がやっているのだ」との気持ちが政子には強かったのだろうが、受け取る側にとっては「余計なことだった」。

《某専務が、夫人のことで、大屋に直言し、傍系企業に出されたことがある。銀行から、夫人が、自分の事業の融資を受けるについて、「帝人社長の名前を使って困る」と意見をのべたのが忌諱にふれたのである》(綱淵昭三『人間 大屋晋三』評言社)

 上司を飛ばして、直接、大屋邸に出入りを許されている社員たちを“バイパス派”と呼んだ。政子夫人のご機嫌をうかがうのがお目当てである。こんなところから政子は、いつしか「カゲの社長」「女社長」と噂されるようになり、不興を買ったと綱淵は書いている。

 1980(昭和55)年、晋三が亡くなると同時に、帝人と政子の蜜月は終わりを告げる。大きな後ろ盾を失った政子に、関係者の手のひら返しが待っていた。政子の事業にバッシングの嵐が襲う。

 1996(平成8)年、オーナーだった名門ゴルフ場・室生ロイヤルカントリークラブで、側近に2億3000万円を横領された。管理と運営を任せ切っていた側近がコースの修繕費や改装費など架空工事を数十件、繰り返していた。

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