「大屋政子」の毀誉褒貶 資産は300億円、“おとうちゃん”が再生した帝人の手のひら返し

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ラッキーな男

 2つの隘路のメドがついたのは、晋三の政界から帝人への復帰と奇跡的に一致した。ビジネスの世界にも、if(もしも)はないが、大屋の復帰前の森新治が社長時代にポリエステル繊維技術の導入が実現していたら、晋三の社長復帰はなかっただろうといわれている。

 東芝を再建させ経団連会長として「財界総理」として君臨していた石坂泰三の口ぐせは「経営者はラッキーな男でなければならない」だった。大屋晋三はラッキーな男だった。

 1957(昭和32)年2月、帝人と東レは英国ICI社からのポリエステル繊維製造技術の導入許可を取得した。合成繊維の技術に一歩も二歩も先行していた東洋レーヨンは、ポリエステル繊維のための工場建設を早くも3月中に開始した。帝人はこれに遅れること5カ月。8月に、ようやくポリエステル繊維を製造するための松山工場の配置図の作成と機械の設計に着手した。

《帝人は、東洋レーヨンに遅れまいとする気概にあふれていた。その原動力となっていたのは、やはり大屋の求心力だった。大屋は関係者に向かってこう言ったのだ。/「東洋レーヨンとうちでは10年の差がある。君たちが逆立ちしたところで東洋レーヨンよりは悪いものができるだろう。無駄金も使うだろう。期限も遅れるだろう。そんなことは当たり前だから気にするな。ビクビクせずに思い切ってやれ。だがこの10年の遅れを、君たちの努力で2、3年までに取り戻してもらいたい」》(前出『先駆者たちの大地』)

帝国の復活

 この晋三の言葉が、関係者を責任の重圧から解き放ち、大いに勇気づけた。また、晋三は各責任者に大幅な権限を持たせ速戦即決の気風を持ち込んだ。当時の帝人はひとつの決定に30もの判が必要といいわれたほど機動力を失っていたが、晋三の強い励ましもあって工場の建設は驚くほど順調に進んだ。東洋レーヨンに比べて着工は半年ほど遅れていたが、竣工した時にはその差は2カ月程度に縮まっていたという。

 このポリエステル繊維の商品名は、消費者の混乱を避けて、しかも最大限の訴求効果をあげるため、帝人と東洋レーヨンが共同で一般から募集することになり、「テトロン」という名称に決まった。

 1958(昭和33)年6月、テトロンの生産が始まり、帝人がようやく再建への軌道に乗り始めた。その後、帝人は世界一のポリエステル繊維メーカーとして、再び一大帝国を築き上げることになる。大屋晋三はテトロンで起死回生の大逆転でホームランを放ち、帝人を蘇らせ、「名経営者」の称号を与えられた。

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