箱根駅伝「オツオリの衝撃」から33年…いわれなき中傷もあった「留学生ランナー列伝」

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 一昨年の第96回大会で史上初の一大会5人の留学生ランナーが出場した箱根駅伝。今年も東京国際大のイェゴン・ヴィンセントをはじめ、出場6校で7人がエントリーされ、ルール上、6人が出場可能なので(出場は1チーム1人)、一昨年、並びに昨年の最多記録更新はほぼ確実となった。今や箱根の風物詩にもなった留学生ランナーの歴史を振り返ってみたい【久保田龍雄/ライター】

「先生、そんなこん気にしちょ」

 史上初の留学生ランナーは、第65回大会(1989年)でデビューした山梨学院大のジョセフ・オツオリとケネディ・イセナである。同大の上田誠仁監督が、ヱスビー食品で瀬古利彦らと切磋琢磨して成長したケニア出身のダグラス・ワキウリを見て、「彼らはどんな環境で、どのような練習をやっているのだろう」と強い関心を抱いたのが、すべての始まりだった。

 そして、87年11月のケニア訪問がきっかけで、現地の高校との交換留学生制度がスタートし、オツオリとイセナを山梨学院大付高に編入学させた。「チームの競争意識を高め、彼らの走りに対する姿勢を通じて何かを学びとってほしい」という願いからだった。

 2人とも本国での記録は平凡で、オツオリは来日当初、懸垂が1度もできなかったという。だが、エチオピアと並ぶマラソン王国からの留学生は、プロ野球の外国人助っ人のようなイメージが先行し、箱根予選会直前に開かれた評議員会でも、2人の参加を認めるかどうかで紛糾した。

 そんな紆余曲折を経て、晴れて箱根デビューをはたしたオツオリは、2区でいきなり7人抜きの快走を演じ、チームに初のシード権をもたらす。その後も3年連続区間賞を獲得するなど、チームメイトに大きな刺激を与え、全体のレベルアップにも貢献した。

 デビュー時は8区で区間最下位に終わったイセナも、第68回大会(92年)では、不調のオツオリをカバーして、3区で区間新をマーク。創部7年目の初Vへの大きな力となった。

 その一方で、世間では“留学生是非論”が起き、“害人”と中傷する声もあったが、真面目で心の優しいオツオリは「先生、そんなこん気にしちょ(そんなこと気にしたらいけません)」とすっかり板についた甲州弁で明るく振る舞っていた。

 そんなナイスガイも、日本の実業団の指導者として腕を振るっていた2006年8月、一時帰国中のケニアで交通事故に遭い、37歳の若さでこの世を去ったのが惜しまれる。

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