バリバリの主力だったのに…なぜか「自由契約」になった選手の“その後”

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指揮官の“再就職支援”

 実質「ナンバー2」のエースが自由契約になる珍事が起きたのが、98年オフの広島だ。ダイエーから移籍して3年目の加藤伸一は同年、シーズンを通してローテーションを守り、8勝6敗、防御率2.99の好成績を残した。8勝はミンチー、守護神・小林幹英に次いでチーム3位、防御率もチーム2位だったが、シーズン終了後、異例ともいうべき自由契約が決まる。

 実は、前年故障の影響で1勝5敗に終わったときに、球団側の減額制限を大幅に超える提示に納得できず、トレードを訴えたものの、認めてもらえなかったため、最終的な妥協案として、自ら希望して「翌年オフに自由契約にする」の約束を取りつけた結果だった。

 東京スポーツ連載の加藤のコラム(今年7月9日付)によれば、シーズン後に自由契約になることを知った三村敏之監督は「防御率2.99と3.00では、次に行く球団で1000万円条件が違ってくる」と全面協力を申し出、最終登板となった10月2日の巨人戦で、規定投球回数到達と防御率2.99の条件をクリアする7回まで、電卓で計算しながら投げさせてくれたという。

 そんな指揮官の“再就職支援”が功を奏し、自由契約選手にもかかわらず、年俸2200万円から6000万円に大幅アップ(推定)という破格の条件でオリックスへの移籍が決定した。自由契約というと、寂寞感の漂う話が多いが、例外的にほのぼのとした味わいを持つ珠玉のエピソードと言えるだろう。

「むしろ、『栄転』だった」

 同じくエース級でありながら、自由契約を通告されたのが、99年オフのロッテ・小宮山悟だ。同年、小宮山は7勝10敗、防御率4.07に終わったものの、黒木知宏に次いでチーム2位の成績だった。

 だが、シーズン終盤の10月6日に「(移籍か残留かは)白紙だが、ロッテが自分をどう評価しているか知りたいし、他球団の話も聞いてみたい」とFA権行使を明言したことが、運命を変える。シーズン終了の10月15日、小宮山は球団から「チームが若返りを図るため、来季の構想に入っていない」とまさかの戦力外通告を受けてしまう。

 この時点では、残留も選択肢にあった小宮山は「残念。でも、シーズン終盤は2軍で、戦力として期待されていないことは感じていた」と現実を素直に受け入れ、「1も2にも小宮山という投手の能力を評価し、必要としてくれるチームがあれば、そこにお世話になりたい」と移籍先を探した。

 オリックスなど複数球団が名乗りを挙げるなか、国内残留の場合の移籍先を横浜一本に絞ったあと、メジャー数球団と交渉も、「足元を見ているという評価」で断念。12月26日に「戦力外を告げられてショックを受けているときに、興味を持っているといわれ、気持ちがぐらついた」という横浜に入団した。

「自由契約というのは、ビジネスパーソンにとっての『解雇』にあたるのではないかという見方もある。だが、僕自身は、ベイスターズへの移籍を『解雇』や『左遷』としてとらえていない。むしろ、『栄転』だったと思っている」(自著「『まわり道』の効用」、講談社)

 その言葉どおり、横浜移籍2年目の01年に12勝を挙げた小宮山は、メッツと契約し、憧れのメジャーへの“栄転”を実現している。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2021」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮編集部

2021年12月11日掲載

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