出光興産、創業者「出光佐三」が掲げた民族経営、「日章丸事件」と裁判所での歴史的大演説

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日本を興奮させた快挙

 佐三は1952年暮れから翌年2月にかけて、極秘にイラン政府と交渉し、同国の原油の購入契約の締結に漕ぎつけた。

 ここで仕掛けた奇襲が、アバダン行きであった。1953年3月23日、日章丸は出光興産神戸油槽所を静かに出航した。イランのアバダン港に向かうことを知っていたのは、佐三と日章丸の船長、機関長の3人だけだった。

 日章丸は4月10日、アバダン港に到着した。港に近づくと数十隻の船が出迎え、桟橋は黒山の人だかりだった。

 原油を満載した日章丸は4月13日、他船との交信を一切断ち、ひそかにペルシャ湾を抜け出した。シンガポールに基地を置く英海軍の監視を考えて、帰路はマラッカ海峡を避けた。水深が浅く巨大タンカーにとって危険な航行になることが分かっていたジャワ海を通るなどして、英国の包囲網をくぐり抜けた。

 およそ1カ月後の5月9日、川崎港に入港した。英国政府とメジャーを向こうに回して勝利した佐三は記者会見で、こう言い放った。

「一(いち)出光のためという、ちっぽけな目的のために50余名の乗組員の命と日章丸を危険に晒(さら)したのではない。国際カルテルの支配を撥ね返し、消費者に安い石油を提供するためだ」

裁判所での歴史的演説

 日本が連合国の統治下から離れ、独立国として主権を取り戻してから、わずか1年後のこと。日章丸のイラン原油の直輸入ほど、敗戦と占領に打ちひしがれた日本人の心を奮い立たせたものはなかった。国際石油資本の鼻をあかした胸のすくような快挙に、国民は狂喜乱舞した。

 英国は日本政府に激しく抗議した。AIは日章丸搭載の積荷の所有権を主張し、出光を東京地裁に提訴した。この時、佐三は裁判所で歴史的な大演説をした。

「この問題で国際紛争を起こしておりますが、私としては日本国民の一人として、俯仰天地に愧(は)じない行動に終始することを、裁判長にお誓い致します」

 天の神、地の神に誓って、少しも恥じるところはないという意味である。AIは突如、訴訟を取り下げ、出光の勝訴で終わりを告げた。

 だが、訴訟取り下げの裏には国際的な謀略があった。1953年8月、英米の情報機関の手引きでパーレビ国王派の軍事クーデターが起こり、モサッデクは失脚した。新政権を米国は即承認し、経済援助を約束した。

 イラン新政府は1954(昭和29)年8月、英米コンソーシアムと協定を結んだ。イランの原油生産は再びメジャーの手に落ちた。出光興産のイランからの原油輸入は、1956(昭和31)年にストップした。

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