出光興産、創業者「出光佐三」が掲げた民族経営、「日章丸事件」と裁判所での歴史的大演説

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イランとアメリカ

 イランと英国の関係は悪化した。英国は艦隊を中東に派遣して威圧する一方、施設の接収は犯罪行為だとして国際司法裁判所に訴え、イランに対して経済制裁を断行した。

 モサッデク政権は原油の新たな買い手を探した。しかし、英国とAIを敵に回してタンカーをイランに配船する会社は、世界広しといえどもどこにもなかった。

 だが、米国のメジャーの本音は違っていた。英国が独占してきたイランの原油利権を手に入れる絶好のチャンスと判断した。米国政府は、自国のメジャーの動きをバックアップするため、イランの石油国有化を支持した。英国は仕方なく米国と裏取引をして、コンソーシアム(企業連合)を作って米英でイランの石油関連の利権を独占することで合意した。

 モサッデク政権が発足した1951年、佐三の実弟で出光興産専務だった出光計助に一本の電話が入った。電話の主は佐三と同郷、福岡県出身のブリヂストンタイヤ(当時)社長の石橋正二郎だった。石橋は娘婿の通産官僚・郷裕弘(ごう・やすひろ)や政府関係者を介して、ニューヨークに事務所を構えるイラン人バイヤーがイラン原油の買い手を探していることを知り、出光に話をつないだのである。

社運を賭けた決断

 日本は占領下にあり、イランの石油国有化策はまだ国際的に承認されていなかったことから、当初、佐三は慎重だった。

 1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復した。同じころ、米国が石油国有化を支持してイランと技術協定を結んだ。国際司法裁判所もAIの提訴を退けた。注意深く情報を集めていた佐三は、機が熟したと判断した。

 しかし、イタリアとスイスの業者が共同出資したタンカーが、イラン原油を積んで帰る途中、英国海軍に拿捕(だほ)される事件が起きた。

 事は極秘に運ばなければならない。出光はタンカーを1隻しか所有しておらず、拿捕されれば会社の存亡が危うくなる。社運を賭けた決断だった。

 イランから原油を輸入するには、外貨の割当を受ける必要がある。講和条約発効まもない日本政府は、英国とイランが対立している最中にイランの原油を購入すると、対英関係が悪化するのではないかと懸念した。1953(昭和28)年6月2日、エリザベス二世女王の戴冠式に、天皇の名代として皇太子の出席が決まっていた。英国内には第二次大戦のわだかまりが色濃く残っており、特に外務省はイラン原油の輸入に腰が引けていた。

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