「京大霊長類研究所」への惜別の辞~学生誘拐事件と「化石をかみつぶした」天才研究者の物語(後編)

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完全に途絶した南アメリカでのサル調査

 もしも公になれば、大騒ぎになる「事件」だっただろう。

 ただ幸か不幸か、隠密裏にことははこび(彼女自身からきいたところでは、身代金は格安であったらしい。それでも何百万円のオーダーであるが)、事件になることはなかった。

 ただし、これ以来、南アメリカでのサル調査のプロジェクトは完全に途絶してしまったことは、かえすがえすも残念である。当事者の人々は、慚愧にたえないのではないだろうか。

 日本のサル学は、その広がりを半分にせばめてしまったといえるかもしれない。2010年以降になって、霊長研の院生自身がブラジルでの調査を目指してきたものの、指導教官がサルのサの字も知らない植物の専門家で、ブラジルの大都会の森という、いわば日比谷公園みたいな場所で調査するというのでは箸にも棒にもかからない。

 いずれにせよ、霊長研が解体される以上、サル学をめざす者は、互いにつどう機会を提供してくれる場所を喪失することとなるのである。

「こんなに頭の良い人がいるのだ」という思い

 一国一城の主が集うということは、当然ながら集う人物は多士済々であるということを意味している。霊長研に来てみて、はじめてこんな人間が世の中には存在するのだと、納得することも私には決して稀ではなかった。

 なかでもいちばん驚嘆したのは、「こんなに頭の良い人がいるのだ」という思いだったと今振り返って感ずる。わたしにとっては、1980年に南アメリカでの調査から帰った時に、ちょうど霊長研に助手として着任したばかりの4歳年上の彼がそうだった。

 相手もまだ新しい職場で、年配の同僚ばかりだったからだろう、なにかと話しかけてきてすぐ仲良くなった。

 西日本の地方都市の出身で、あとから聞いたところでは、やはり地元でも神童とよばれていたらしい。この人はすごい研究者になるぞというのが、率直な感想だった。しかもおそろしく勉強家で、博識でもある。

 ところがである。20代なかばというわかさで就職したというのに、それ以降は一向に論文を書かないのである。さらに30代になると、研究そのものをすることもなくなっていった。なにをしているかというと、ひたすら本を読んでいる。

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