「スポーツが教育的というのはおごり」 日本ラグビー史を変えた監督「宿澤広朗」が遺した金言(小林信也)

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 ラグビー日本代表が初めて世界8強の一角を破ったのは1989年5月28日のスコットランド戦だ。

 日本代表監督の宿澤広朗(しゅくざわひろあき)が試合前日、ラグビー場を見下ろすように建つ伊藤忠ビル15階の窓から、スコットランドの非公開練習を密かに見たという事実は「歴史的勝利」を彩る有名な話になっている。

 宿澤には、確かめたいことがあった。数日前、歓迎夕食会の席でも探りは入れた。宿澤はバックス・コーチのジョンストンに聞いた。

「試合ではお互いにボールを大きく動かすオープン・ゲームをしよう。スコットランドは、日本のバックス勝負を受けて立ちますか?」

 ジョンストンは、目を伏せて黙り込んだ。その表情で宿澤は自分の読みが当たっていると感じた。フォワード勝負で来るに違いない。それならば勝てる!

 ラグビー関係者の多くは、「フォワード勝負では勝ち目がない」と考えていた。宿澤は違った。大柄なバックスがトップスピードで走り込んで来たら日本は守りきれない。フォワードにモノを言わせて来てくれた方が勝機を見出せる。そのための練習も積み重ねていた。

 15階から練習を見下ろすとスコットランドは、フォワードが密集を作ってはボールを出し、走ってはまた密集を作る練習を繰り返していた。宿澤の読みは確信に変わった。

記者会見の第一声

 こうした詳細を含め、宿澤の人物像は、『全戦全勝の哲学 宿澤広朗 勝つことのみが善である』(文春文庫)に著されている。著者の永田洋光が教えてくれた。

「平尾(誠二)がね、『あの試合、スタンドオフが本城さんだったら勝てなかったかもしれない』と後に話しています。宿澤監督は『本城でいいだろ』と言っていた。バックスの植山(信幸)コーチが青木の起用を進言したそうです」

 本城和彦は早稲田大時代、多くの女性ファンを生んだ花形選手だ。女優の吉永小百合が熱狂的なファンだったことでも知られる。その本城に代わって、大東文化大の青木忍が抜擢された。

「ポジションは違うけれど、本城も平尾も自分で試合を仕切りたい選手ですからね。一緒に出ていたら、チームは機能しなかったでしょう。青木は平尾のイメージ通りにやるし、平尾の隣には朽木英次という正確にボールを動かせる職人がいた」

 伝説の一戦は、本城と平尾、二人の明暗を分ける運命の試合でもあった。

 試合前、宿澤は最後にこう言って選手たちを闘いの舞台に送り出した。

「ともに新しい歴史の一ページを開こう」

 永田が著書に記している。

〈宿澤は後にこう語った。

「これ以上やることがないところまでやって、試合を迎えることができた」

 頭には、勝った場合の記者会見の第一声までが準備されていた。〉

 日本代表は宿澤のプラン通り試合を進め、28対24で金星を挙げた。トライ数は日本5、スコットランド1の圧勝だった。記者に囲まれた宿澤は用意していた言葉を口にした。

「お約束通り、勝ちました」

 宿澤は早稲田大を卒業後、住友銀行に就職。やがて為替ディーラーの職務を担い、一日に数百億円を動かすほどの仕事に携わった。

 ロンドン勤務、支店長などを経て取締役専務執行役員となり、「いずれは頭取」と周囲が期待する存在になった。ところが2006年6月17日、赤城山登山の途中、心筋梗塞で急逝する。55歳、早すぎる旅立ちだった。

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