ドイツ「10代の投票率」は70% 30%の日本と違い過ぎる教育文化にその秘密がある

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教員の政治的中立とは?

 日独における政治や選挙に対する意識の差は、両国の学校教育の違いから生まれるのではないだろうか。

 日本の学校では、「公民」や「政治経済」という科目で現在の選挙制度や選挙の歴史を学ぶ。中には、自治体の選挙管理委員会から実際の投票箱を拝借し、投票の練習や模擬選挙を実施する熱心な先生もいる。しかし、「教育基本法」では、教員の政治的中立を確立するため、特定の政党への賛否、政治教育、政治活動などが明確に禁じられている(同法第2章14条)。これに抵触しないよう十分に気を遣いながら政治教育を進めていくことになると、触らぬ神に祟りなしと考えて選挙制度の知識を教えるだけで終わらせ、「語らないことによる中立」を意識せざるを得なくなる。

 ドイツの政治教育はどうだろうか。ドイツの学校では、日本の中学2年生にあたる時期から政治の授業で現実の政党と政策を学ぶ。例えば、まず生徒達で数人ずつのグループを作り、それぞれ調べたい政党を決め、ポスターにまとめて発表する。「CDUは、退任するメルケル首相が率いる政権与党であり、経済政策では将来の増税に繋がるような財政赤字をよしとしない、家族政策では同性愛家庭には後ろ向き」といった具合である。その上で、生徒同士が政策に対する賛否を個人的に意見する場面も見受けられる。

 議論が白熱すればするほど、それは政策を理解した上での政治的な立場の表れとなる。だからこそ、教師はどちらも政治的な意見だと気づかせつつ、双方の意見を等しく認めていく。そして、個々の意見を代弁して実行してくれる政党への投票行動が有意義であることに気づかせる。

 それでは、生徒が先生に「どの政党を支持しているか?」、「この政策についてどう思うか?」など、核心に触れる質問を投げかけた場合はどうなるのか。

 ドイツの教師は、「私の意見はね(Nach meiner Meinung)」という枕詞を使い、自分の答えをはっきり述べる。教師もひとりの国民であり有権者として、私見を堂々と披露するのだ。生徒たちも、それをあくまでひとつの意見として傾聴した後、時には教師の私見に反論していく。

 ドイツではこの「私の意見はね」という一言が、老若男女、場所を問わずとても重要とされていて、政治教育の場においても「語ることによる中立」が根付いている。

 このように、ドイツの学校は、本物の政治を扱いながら、生徒ひとりひとりが年齢に合わせた意見や疑問を抱くことで、自分の力で考えられるように思考力を養っているのだ。
一方、日本の学校教育は、選挙制度の知識や模擬投票に徹し、社会に出た際にうろたえることのないよう備えるものとなっている。

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