自民党総裁選10番勝負 最も激しい戦いだったのは田中VS福田VS大平VS三木

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 退陣を表明した菅義偉首相の自民党総裁としての後任を決める総裁選挙が、29日に行われる。

 自民党総裁選挙は、事実上、首相を選ぶ選挙であるので、これまでも数々のドラマが生まれてきた。そのうち、激しい争いだった10回の総裁選挙を「自民党戦国史10番勝負」として取り上げる。今回の総裁選挙を考える上でも参考になる、あるいは伏線として意味のあるエピソードが多い。

 現在の制度では、国会議員の票と一般党員の票は同じ数だが、一般党員による投票が行われるようになったのは、福田・大平の争いだった1978年の時が最初である。また、立候補の条件や投票の配分、手順はめまぐるしく変わってきた。

 ただ基本としては、総裁任期満了の場合、一般党員投票も行われるが、任期途中での死亡や辞職の場合は国会議員と地方県連代表による投票のみで、任期は残存期間だけである。総裁の任期については、たびたび変更されているし、途中で任期を延長したこともある。

【1番勝負】 岸信介×石橋湛山×石井光次郎(1956年12月)

 保守合同によって、緒方竹虎を党首とする自由党(吉田茂時代の与党)と、鳩山一郎首相の民主党が統合して自由民主党となったのは、1955年11月のことだった。

 総裁をどうするか、新しい総裁がすぐに首相になるのかが問題だったが、さしあたり党は集団指導体制とし、首相は鳩山が続投し、折を見て総裁選を行い、緒方が選ばれたら首相となるのが暗黙の了解となった。

 ところが、緒方が1956年1月に急逝したので、1956年4月の総裁選挙では無風で鳩山が初代の自民党総裁に選ばれた。そして日ソ交渉が妥結したのを受けて、鳩山総裁は辞任し、1956年12月に事実上初の総裁選挙が行われた。

 選挙戦では岸信介幹事長は豊富な資金力で買収を行い、ジャーナリスト出身の石橋湛山通産相は閣僚ポストなどを乱発して対抗、第一回の投票では岸信介が223票、石橋湛山が151票、緒方の派閥を継承した石井光次郎が137票となった。だが劣勢が予想された石橋、石井は二・三位連合を組んでおり、第二回の投票では石橋が258票、岸信介が251票で石橋の逆転勝利となった。

 政策と関係なく数合わせだけでこのような裏取引をすることがいいこととは思えないが、この手法はその後の総裁選挙でしばしば試みられることになる。

 一方、岸は選挙後にポストを自派にも配分することを条件に党内融和に協力するとし、自らは副総理格の外相となった。そして石橋がわずか2ヶ月で病気退陣したときには、総理臨時代理だった岸がそのまま自民党総裁、首相となって、選挙が終わったらノーサイド、短期で交代の場合は善戦して二位だった候補者が後継になるという習慣になっていく。

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