深澤弘さんを悼む 長嶋茂雄の大洋監督話、落合博満の巨人移籍…今ではありえない舞台裏の活躍

スポーツ 野球

  • ブックマーク

Advertisement

 ニッポン放送で長くプロ野球実況を担当した深澤弘アナウンサーが8日に亡くなったと報じられた。享年85歳。

 深澤アナウンサーは、「ショウアップナイター」のラジオ実況でプロ野球ファンなら誰もがその声を知る存在だった。同時に、表と裏の顔を持つ、不思議な才人でもあった。

 アナウンサーという立場で、監督、選手はもちろん、球団のオーナーやフロントスタッフとも親交が深かった。その延長上で、監督人事やトレードの一翼を担う頼まれごともしていたのだ。それはもちろん「非公式のボランティア」みたいなもので、正式な仕事ではないし、大らかな時代だからこそありえた特命スペシャリストだった。

 私は主に「長嶋茂雄」の取材で何度かお世話になった。昨年も、週刊新潮の連載《アスリート列伝 覚醒の時》を書く時に電話でお話を伺った。その証言は、単行本『長嶋茂雄永遠伝説』(さくら舎)にも収められている。

長嶋茂雄の「練習相手」

 深澤の「舞台裏の活躍」で最も有名なのは、現役時代の後半から急速に親しくなった長嶋茂雄の「練習相手」であり、監督時代、浪人時代には「重要な相談相手」だったこと。深澤が長嶋と親しいことは球界に広く知られていたから、長嶋に直接頼めないことは深澤を通じて打診するようになるのは自然の流れだった。

 80年10月に監督を解任され、いわゆる浪人4年目、巨人復帰の可能性が見えない中、「長嶋、大洋監督受諾か」と報じられた時期があった。実際、長嶋の横浜大洋(現・横浜DeNA)入りは実現寸前まで至っていた、と深澤から聞かされた。

「私は大洋と長嶋さんの仲介役でした」と言って、悔しそうに深澤は続けた。

「最後の決断にあたって、長嶋さんは信頼する後援者4人に相談をした。すると2対2で意見が分かれてしまった。それで長嶋さんから、『やはり大洋には行けない』と連絡を受けた時、私は全身の力が抜けてへたり込んでしまいました」

 長嶋監督が巨人を解任されたその日のうちに西武ライオンズの根本陸夫監督(当時)から連絡を受けて、後に根本・長嶋会談を設定したのも深澤だった。その時、長嶋は根本の誘いを丁重に断っている。

次ページ:「落合を獲れないか」

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。