追悼・千葉真一さん 中島貞夫監督は「役者の仕事に絞っていたら、苦労せずに済んだでしょう」

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 千葉真一さんが8月19日、新型コロナウイルスによる肺炎のため千葉県君津市の病院で亡くなった。82歳だった。千葉さんの初期の主演映画「日本暗殺秘録」でメガホンを執り、昨年10月には京都国際映画祭で一緒に座談会に参加した中島貞夫監督(87)が、千葉さんの素顔を語った。

「残念無念ですよ。千葉君とは長い付き合いでしたから」

 そう語るのは中島監督である。血盟団事件をテーマにした「日本暗殺秘録」で千葉さんを主人公・小沼正役で起用。千葉さんの代表作の1つである主演映画「沖縄やくざ戦争」(1976年)なども撮った。

 昨年10月に開催された京都国際映画祭2020では沖縄を舞台にした映画について千葉さんと語り合ったばかりだった。

「元気だったんですけどねぇ……」(中島監督)

 千葉さんは同映画祭にはフェイスシールドを装着して参加した。顔の下半分を覆うタイプのものだった。コロナには用心していた。半面、ワクチンは自分の意思で接種していなかった。

 千葉さんは子供のころから運動神経が抜群で、体操をやっていた。オリンピック出場を目指し、千葉の木更津一高(現木更津高)から日本体育大に進学。だが、練習中に腰などを痛めてしまったため、現役続行をあきらめ、1959年に大学を中退。東映東京撮影所に入社した。

 その後、故・深作欣二監督に重用され、初監督映画「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」(1961年)の主演に抜擢された。ファンも東映も千葉さんのライバルと見ていたのが3歳年下で1期下の故・松方弘樹さんだった。「千葉と松方はずっと競っていくだろう」と言われた。

 東映京都撮影所に所属していた中島監督と千葉さんが初めて会ったのは京都で撮られた「日本暗殺秘録」の時。中島監督は千葉さんの木訥さに感心したという。

「僕と一緒に脚本を書いた笠原和夫さんが千葉君に向かって『監督の家に泊まり込むくらいの気持ちでやらないとダメだよ』と言ったら、本当に体1つで泊まりに来てしまったんですよ」(中島監督)

 故・笠原和夫さんは映画「仁義なき戦いシリーズ」(1973年)などを書いた名脚本家。あくまで比喩として「泊まり込むくらいの気持ちで」と説いたのだが、千葉さんはストレートに受け止めた。

 中島監督の家で千葉さんは暮らし始めた。すると監督は千葉さんがたびたび女性と電話で話していることに気づく。1994年に離婚した前妻の故・野際陽子さんである。

 2人は1968年からTBSのドラマ「キイハンター」で共演。結婚は1973年だが、付き合いは共演が始まった直後からだったのだ。ちなみにこのドラマの演出陣の1人は千葉さんを重用した深作監督である。

「野際ちゃんは(3歳上の)お姉ちゃんで、いろいろと面倒を見ていましたよ」(中島監督)

 千葉さんの迫真のアクションに視聴者が釘付けになった「キイハンター」は視聴率が30%を超える人気番組に。一方で1970年にはアクション役者とスタントマンの養成所「ジャパンアクションクラブ(JAC)」を設立した。千葉さんの黄金期が始まった。

 映画「ボディガード牙シリーズ」(1973年~)などのアクション作品に主演する一方、同「仁義なき戦い 広島死闘篇」(1973年)などのヤクザ映画に出演した。

 この「広島死闘篇」では下品極まりない凶暴な組長・大友勝利を熱演。大友が口にした「ワシらうまいもの食うてよ、マブいスケ抱くために生まれてきてるんじゃないの」などのセリフは流行語にまでなった。

 松方さんとダブル主演した「沖縄やくざ戦争」(1976年)ではイケイケの武闘派組長の国頭正剛役をやはり好演した。

「演技は松方さんより良かったですよ」(中島監督)

 アクション監督を兼務した主演作「戦国自衛隊」(1979年)も記念碑的作品である。演じたのは戦国時代にタイムスリップした陸上自衛隊3尉・伊庭義明。本能的に戦いを追い求めるようになってしまう男だった。

アクションに入り込みすぎ…

 だが、徐々に千葉さんの前に暗雲が垂れ込め始める。しかも、その理由は千葉さんが賭けてきたアクション役者という立場とJACだった。

 中島監督が語る。

「演技よりアクションに入り込みすぎてしまい、役者として損をしたんですよ。もったいなかった」

 アクション役者の部分が大きくなりすぎて、それ以外の役の幅を自ら狭めてしまったというのだ。確かに千葉さんはサラリーマン役の経験がないに等しい。アクション作品、ヤクザ作品の全盛期が過ぎた1990年代以降、出演映画、同ドラマが減っていった。

 2003年にはクエンティン・タランティーノ監督の映画「キル・ビル」に出演したものの、これも背景には国内でのアクション作品の減少がある。

「アクション作品ブームの衰退とともに千葉君の出番も減ってしまったわけです」(中島監督)

 JACの運営難も千葉さんを苦しめた。

 JACは志穂美悦子(65)、真田広之(60)、伊原剛志(57)、堤真一(57)らを生み、映画やミュージカルもつくったが、やがて資金繰りが苦しくなり、1991年に売却された。だが、オーナーだった千葉さんの負債は残ったという。

 その後は映画製作のための資金繰りが千葉さんを悩ませた。

「晩年の千葉さんは東映との間にはすきま風が吹いていた。JACと映画製作の負債が原因でした。東映関係者との金銭問題もあった。JACも映画製作も千葉さんの夢だったのでしょうが、やはり事業は難しい」(映画関係者)

 中島監督が語る。

「役者の仕事に絞っていたら、苦労せずに済んだでしょう」

 だが、レジェンドであることに変わりはない。後輩の役者たちは最後まで自分たちの作品への千葉さんの出演を望んだ。

 例えば既に45作目まで発売されている仁侠ビデオシネマ「日本統一」の第1弾と第2弾(2013年発売)に大物組長権田誠蔵役で出演した。堂々の貫禄で、シリーズのスタートに花を添えた。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

デイリー新潮取材班編集

2021年8月22日掲載

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