台頭著しい「女性芸人」たちの歴史 山田邦子、野沢直子、清水ミチコが果たした役割

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 お笑い芸人の世代分けが流行している。1960年代に世に出たコント55号らが第1世代で、現在の若手は第7世代といった具合。実は分け方に確たる定義はなく、曖昧なのだが、時代によって芸人気質が変わるのは間違いない。台頭著しい女性芸人たちの歴史を辿ってみる。

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■1950年代

 現役世代の記憶に残る最も古い女性芸人というと、内海桂子・好江ではないか。現在はウッチャンナンチャンや出川哲朗(57)らが所属するマセキ芸能社から1950年にデビュー。まだ戦争の爪痕がいたるところに残っていたころだ。

 和服姿の2人が江戸弁でしゃべくり合う一方、三味線を弾き、都々逸を披露した。その芸は完成度が高く、1982年には漫才で初めての芸術選奨文部大臣賞を受けた。

 2人のやり取りは時にケンカ越しだったものの、一時期、本当に仲が良くなかったという。背景にはギャラの配分をめぐる諍いがあった。年上の桂子のほうが少し多かった。

 もっとも、お互いに金が欲しくて揉めたのではなく、プライドの問題だった。14歳年上の桂子は自分が多くて当然と思い、好江は自分の貢献度は桂子に負けていないと考えた。相手と本気で張り合っていたからこそ2人の芸には隙がなかったのだろう。

 好江が1997年に胃ガンで亡くなるまで2人で活躍した。桂子も昨年、逝った。

 1952年にデビューし、松竹芸能に所属したのが、かしまし娘の3人。実の姉妹で長女の正司歌江(92)が三味線を繰り、妹の照枝(88)、花江(85)がギターを弾いた。ネタも姉妹の会話仕立てだった。

 家業は旅回り一座。3人とも幼いころから父親から英才教育を受けたこともあり、楽器の腕前、歌、話芸のいずれもが一級品だった。

 1956年に結成されたのが唄子・啓助。強くてしっかり者の唄子が、頼りなくて非常識というキャラ設定の啓助をどやしつけるという芸風がウケた。

 やがて2人は結婚したものの、1965年に離婚。それでもコンビは続いた。当初は夫婦漫才で、離婚後は元夫婦であることをネタにした。啓助は1994年、唄子は2017年に逝った。

■1960年代

 高度成長の真っ最中だった1963年、女性版の坂田利夫(79)のような芸人が現れた。松竹芸能に所属した正司敏江・玲児の敏江(80)である。

 2人は夫婦だったものの、いたわり合うようなところは一切なく、芸風は過激なまでのドツキ漫才。今はカミナリのたくみ(33)が、まなぶ(32)の頭を引っぱたくが、それどころの騒ぎではなかった。

 徹底的にボケまくる和服姿の敏江を、スーツを着込んだ玲児が何度も思い切り張り倒した。敏江が吹っ飛んでしまうこともあった。

 以来、この2人以上に激しいドツキ漫才は出ていない。今後も出ないだろう。コンプライアンス社会になったので、クレームを付けられるはずだ。

 2人は1974年に離婚したものの、コンビは玲児が亡くなる2010年まで続いた。

■1970年代

 団塊の世代による学園紛争が完全には終わっていなかった1971年、学生たちとほぼ同世代の姉妹コンビがデビューした。海原千里・万里。16歳と21歳だった。千里が現在の上沼恵美子(66)なのはご存じの通りだ。

 ネタの面白さ、アドリブの巧みなところ、間の取り方がいずれもピカイチ。のちにビートたけし(74)も島田紳助氏(65)も絶賛した。2人のホームグラウンドは大阪だったものの、瞬く間に全国区の人気を得る。

 ファッションがそれ以前の女性芸人と違ったところも特徴の1つ。和服ではないし、派手なドレスも着なかった。同年代の女性たちとそう違わない服装で、時にはカジュアルな姿も見せた。ネタも日常生活をベースにしたものが多く、見る側にとって女性芸人が身近な存在になった。

 さらに女性芸人を身近にしたのが、1976年に松竹芸能からデビューした春やすこ・けいこ。15歳と18歳で、服装がカジュアルだった上、ネタも女子高生や女子大生の会話のようだった。

 やすこはアイドル的なルックスだったため、グラビアやドラマにも登場。ファンが女性芸人にお笑い以外の魅力も見いだし始める。

「後世」に影響を与えた3人

■1980年代

 バブル前夜でテレビの黄金期だった1983年、後進の女性芸人に強い影響を与える3人がデビューする。

 まず山田邦子(61)。松田聖子(59)のぶりっ子をパロディ化し、ネタにした。女性芸人が同性の芸能人の言動を露骨に茶化し、ネタにすることはなかったので、画期的だった。バスガイドのアナウンスなどの職業パロディもまた新鮮だった。いずれも学生のコンパ芸を感じさせる芸風だった。

 実際に山田はデビュー前の川村短大在学中、早稲田大の寄席演芸研究会に所属。厳しい徒弟制度などがある芸人の世界とは無縁のまま世に出た。そのためか泥臭さが微塵もなかった。

 それが見る側の求めていたものに合致したのだろう。1989年にはフジテレビで冠番組「邦ちゃんのやまだかつてないテレビ」を持つ。在京キー局で女性芸人がゴールデンタイムの冠番組を持つのは初めてだった。1986年の男女雇用機会均等法の施行から3年後のことだ。

 世に出たのは山田より遅いものの、清水ミチコ(61)も同じ年にプロとしての活動を開始した。泥臭さがないところも山田と一緒だった。

 文教大女子短大に在学中はラジオ番組に投稿を重ねるハガキ職人だった。そのセンスが認められ、やがて番組の構成作家兼出演者に。ハガキ職人出身者が活躍し始めた1980年代らしかった。

 1986年からはライブハウスでモノマネなどを披露。それが評判となり、翌1987年にはフジによる新しい才能の発掘番組「冗談画報」に登場。一躍注目を浴びる。1970年までの女性芸人たちとは歩みが全く違った。

 野沢直子(58)は女性芸人の流れを大きく変えた。何から何まで奔放。最近、タメ口と言えばフワちゃん(27)だが、その先駆者は野沢である。

 金髪にした女性芸人も野沢が最初。やがてモヒカンにもした。歌も歌った。1988年に出したアルバム「はなぢ」の「おーわだばく」ではロックのリズムに合わせ、ひたすら大和田獏(70)の名前を連呼した。

 野沢は活動全体がアバンギャルドだった。近年、芸人をアーチストと呼ぶこともあるが、その流れを作ったのは野沢にほかならない。

 1991年、日本での芸能活動休止し、渡米。人気絶頂だったことから世間も芸能界も驚いたが、自由人の野沢にとっては普通のことだったのだろう。現在も生活拠点は米国に置いているものの、出稼ぎと称して日本でも活動している。これも自由人の野沢らしい。

 野沢の存在は同世代の見る側に強い影響を与えた。本人はそんなつもりはなかったのだろうが、言外に「好きに生きることが正しい」というメッセージが発信された。

■1990年代

 バブルが弾けた。夢が持ちにくい時代が始まった。その最中の1992年にデビューしたのが大久保佳代子(50)と光浦靖子(50)によるオアシズである。2人は幼なじみだ。

 1980年代の漫才ブームを仕掛けた故・澤田隆治プロデューサーは「芸人に学歴はいらん。でも頭が良くないと成功しない」というのが持論の1つだったが、オアシズはいわゆる高学歴だった。

 大久保が千葉大で光浦が東京外語大。今でこそ高学歴の芸人は珍しくないものの、当時は驚いた人も多かった。学歴が一生を決めると考えている人が今より多かった。

 2人は当初、苦戦した。模倣を嫌い、新しい女性芸人コンビのスタイルを探したが、その答えがなかなか見つからなかったのだろう。

 結成から10年が過ぎたころから、まるでOLの素のようなトークがウケ始める。大久保の実体験に基づく下ネタ、光浦の理路整然とした毒舌が笑いを誘った。2人とも頭が良い上に知識欲が旺盛なので、時事ネタに強いのも大きかった。

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