夏の甲子園を巡る3大事件簿 「優勝旗盗難」に「赤痢発生」、「帰れコール」

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全打席敬遠を支持

 大会ナンバーワン打者への連続敬遠に激昂したスタンドのファンが、グラウンドにゴミを投げ込み、“帰れコール”まで起きる騒動になったのが、1992年の2回戦、星稜vs明徳義塾だ。

 星稜の4番・松井秀喜は甲子園で春夏通算5本塁打を記録し、「北陸に初の優勝旗を」の悲願とともに高校最後の甲子園にやって来た。

 だが、松井の一発を警戒した明徳義塾・馬淵史郎監督は「ウチの投手がまともにいったら必ず打たれる。5番以下で勝負したほうが確率的にいいと思った」と全打席敬遠を指示する。

 1回2死三塁、松井が打席に入ると、マウンドの河野和洋は4球とも外角に外し、一塁に歩かせた。

 さらに3回1死二、三塁の第2打席も四球。どちらも一塁が空いていたので、この時点では「敬遠もやむなし」の空気があったが、5回1死一塁の第3打席も敬遠されると、星稜ベンチも「全打席敬遠するつもりだ」と気づいた。さらに、7回2死無走者の第4打席も敬遠。5万の大観衆で埋まったスタンドからも「勝負!勝負!」の大合唱が沸き起きる。

 そして、1点を追う星稜の9回の攻撃も、2死三塁で松井は敬遠。この瞬間、観衆の怒りも頂点に達し、「帰れ!帰れ!」の怒号とともに、グラウンドにメガホンや空き瓶などが投げ込まれた。

「グラウンドに物を投げ込まないでください」の場内放送は、高校野球では異例の事態だった。さらに3対2で勝利した明徳ナインが整列し、校歌が流れると、再び“帰れコール”が起き、校歌はかき消された。

 1回もバットを振ることなく敗れ去った松井は試合後、「勝負してほしかった?」の問いに、無念そうに頷いた。18歳の少年にはあまりにも残酷な幕切れだったが、この騒動には、松井らしい素敵な後日談がある。

 10年後の2002年夏、明徳義塾が初優勝すると、松井はその日のうちに馬淵監督にお祝いの電話を入れたという。翌朝、馬淵監督からこの行動を知らされた星稜時代の恩師・山下智茂監督は「彼は、そういう気配りのできる男なんです」と語っている。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新刊は電子書籍「プロ野球B級ニュース事件簿2020」上・下巻(野球文明叢書)

デイリー新潮取材班編集

2021年8月8日掲載

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