ヘーシンクの柔道を思い出した… 金メダル「大野将平」を成長させた8年前の事件

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暴力事件も克服し

 そんな大野もすべてが順風だったわけではない。藤猪氏が「ああいうことがあったことも大野を成長させたと思います」と振り返ることがある。

 2013年、大野が天理大学の主将だった時、4年生の1年生への暴力事件が発覚する。大野は直接加担してはいなかったが、大学から大野ら5人が30日の停学処分、全日本柔道連盟(全柔連)からは3か月の登録停止と強化指定選手取り消しの処分を受けた。当時、藤猪氏は柔道部の部長だった。主将を解かれた大野は被害選手の自宅に藤猪氏と土佐三郎監督と一緒に謝罪に行った。しかしそれで収まらず、藤猪氏と土佐監督はともに辞任、藤猪氏は理事も辞任する事態になった。大学内のこととして全柔連に報告しなかったことも批判された。この頃、全柔連は女性選手への男性コーチの暴力や侮蔑発言などで大騒動になっていた。

 天理大学は、細川伸二、篠原信一、野村忠宏、穴井隆将、丸山城志郎などの五輪選手を輩出した名門である。藤猪氏は「入部してきた頃はあまりしゃべらない男で黙々と練習していた。少しは話すようになったようだけど、無骨な姿勢はあのころと変わらないでしょう。パリ五輪までも頑張ってくれれば、大野なら3連覇もできますよ」と期待を寄せる。3連覇すれば「西の雄」天理大学は野村忠宏に続いて二人の五輪3連覇を出すことになる。

 様々な苦難を克服し、2連覇した大野将平は、当たり前の仕事を終えたかの如く畳を降りた。敗者に敬意を払い、畳の上では決して喜びを爆発させない。1964年の東京五輪の無差別級の金メダリスト、あのオランダの巨漢、ヘーシンクは天理大学で松本安市監督の元で鍛えていた。無差別級の決勝で激戦の末に神永昭夫(故人)を袈裟固めに下した直後、狂喜して畳に上がろうとするオランダの関係者を手で制した。ヘーシンクは柔道の礼儀を日本人以上に熟知していた。そんな古い歴史も思い出してしまう大野の姿だった。

「最強の柔道家」

 畳を降りた大野。怖い顔はいっぺんに優しくなり、「勝負の世界で絶対はないと感じたし、それが準決勝、決勝の延長戦で私が感じた恐怖心だと思う」「結果として『圧倒的』から『絶対的』に少しは近づけたのでは」などと雄弁に話した。そして「不安でいっぱいの日々を昨年からずっと過ごしていた。この一日で報われたと思っていないし、私の柔道人生はこれからも続いていく」と締め括った。

 かつては対戦する二人が離れている時間の方が長いような柔道も目に付いたが、国際柔道連盟(IJF)や全柔連は短い袖を厳しく禁じるなどして、引き手を切りにくくするなどルール改正し一本勝ちも増えていた。そんな中「正しく組んで正しく投げる日本の柔道」を最も明確に体現してきたのが大野翔平だった。大野は組際にパッと飛びついて相手の襟や袖を掴むというより、先に相手に取らせて、じわじわと自分の組手にしていく。これは強い腕力と握力、そして防御力がないとできないことである。

 大学院での修士論文のテーマは「大外刈」。大野は自身の柔道も分析し、従来の「崩し、作り、掛け」の順ではなく「崩しと作りが同時」という斬新な内容だそうだ。

 畳を降りた大野の肩を抱いてねぎらった日本男子代表チームの井上康生監督(43)は「今まで見てきた中で最強の柔道家と改めて感じた」と断言した。シドニー五輪(2000年)の100キロ級で優勝した井上は、連覇を期待されたアテネ五輪で表彰台にも上がれなかった。周囲が簡単に口にする「連覇」の難しさを誰よりも知る男の実感だった。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

デイリー新潮取材班編集

2021年7月30日掲載

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