「じゃあ、このまま行こうよ。熱海」 初対面の女性が燃え殻さんにかけた驚きの言葉

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名前のついていない関係の女性と熱海へ

 7月29日に2作目の小説『これはただの夏』(新潮社)を上梓した燃え殻さん。40代の「ボク」と、「反則レベル」の美女と、10代の女の子の一瞬の交錯。未だに此処ではない何処かを夢見てしまうあなたに贈る、「ただの夏」を巡るお話だ。刊行を記念して、燃え殻さんが周囲で起きる“滋味あふれる雑事”を綴った「週刊新潮」の連載エッセイ「それでも日々はつづくから」より、厳選のエッセイを公開。

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 こんな日が自分の人生にあってもいいじゃないか。振り返ってみると、そんな日が一日くらいないだろうか。周りには言えないような一日。特に近しい人には言えないような一日。

 ゴールデン街で行きつけだった店の主人が店内で倒れて入院した時、見舞いに行ったら、「よく来てくれたねえ、せつこさん」と僕と一緒に来た常連だった女の子に、ベッドに横たわったまま声をかけた。彼女の名前は「美穂」だったので、ふたりして「え?」と顔を見合わすと店主の奥さんが、「この人、ずっと通っていたキャバレーのママの名前以外、全部忘れてしまったみたいなの」と半ば呆れ顔で、店主の口元を濡れた手ぬぐいで拭いた。

 美穂さんは、「おっちゃん、奥さんにもせつこさんって言ってたよ。ひどくない?」と帰り道、かなりおかんむりだった。だけど僕は正直ちょっと羨ましかった。そんな終わりもまた良しじゃないか、と思っていた。

 名前のついていない関係の女性と、熱海に行ったことがある。きっと誰かが聞いたら僕の頭を引っ叩きたくなるような話をこれからしてしまう。その日は夏の終わりだった。彼女は、「日本ってさ、もう四季じゃないよ」と言った。「え? だったらなに?」と僕が尋ねると、「夏と冬の二季じゃない?」と答えた。確かに当たっているかもしれない。ふたりで熱海駅に降り立った時、暦的には夏が終わったばかりなのに、冬のように寒い風が新幹線のホームを吹き抜けていた。

「じゃあ、このまま行こうよ。熱海」

 前日、僕たちは磯丸水産のパチモンみたいな居酒屋で隣の席になった。僕の知り合いが、自然界に存在しないくらい鮮やかな緑色のマスカットサワーを飲みすぎて突っ伏した時に、隣の席にいた彼女が声をかけてきた。

「彼、大丈夫ですか?」

 その時、僕の知り合いは突っ伏したまま、口からプクプクと泡状のゲロを吐いていた。

「あーダメっぽいですね」

 おしぼりでゲロを拭きながら、知り合いを揺すってみる。すると知り合いはむくりと起きて、突然走って店を出て行った。後日聞いてみたら、吐きそうだったので(もう吐いていたが)、近くの公園のトイレまで走って行って、朝まで吐き倒していたらしい。彼女はそのパチモン磯丸水産の元バイトらしく、ひとりで飲みにきていた。知り合いの捜索を諦めて戻った僕は結局、彼女とそのあと朝まで飲んだ。飲みながら、「こんな寒いと温泉に行きたいよね」と何の気なしに僕が言ってしまう。

「じゃあ、このまま行こうよ。熱海」

 彼女がニヤッと笑った。

「いいねえ」

 酔った勢いで出た言葉にロマンを感じた。僕は途中離脱した知り合いと彼女の分を払って、「あの、連絡先でも」と下心をなるべく消しながら聞いてみた。

「え? これから熱海なのに?」

 彼女は白んだ空の下、真顔で僕にそう返した。

 そして酔っ払いを降ろしたばかりの緑のタクシーをつかまえて、僕たちは品川駅まで行く。新幹線のチケット代を、「さっき奢ってもらったから」と彼女が出してくれて、あっという間に寒風吹き荒ぶ熱海駅に降り立った。

「本当に来た」

 そう言って彼女が笑った。僕も笑った。ああ、こんな日が僕の人生にあってもいいじゃないか。

燃え殻(もえがら)
1973年生まれ。テレビ美術の制作会社勤務のかたわら、WEB連載の小説で注目を集める。その書籍化、『ボクたちはみんな大人になれなかった』(新潮社)がベストセラーに。

2021年7月30日掲載

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