現代の秘境「東京藝大」に潜入 「大学の敷地内にホームレスさんの家」 懐の深さは日本一?

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 累計40万部を突破したノンフィクション『最後の秘境 東京藝大―天才たちのカオスな日常―』(二宮敦人・著)は、社会現象にもなった前人未到、抱腹絶倒の探検記。妻(東京藝大生)のあとをおそるおそるついていく著者(小説家)がまず足を踏み入れたのは美術学部だった。校門をくぐるときにすれ違った全身泥だらけの鉢巻おじさん集団は熟練の肉体労働者――ではなく妻が在籍する彫刻科の教授陣。さらに小さめの体育館ほどもある彫刻棟の中に足を踏み入れた著者は、妻の腕が筋肉質な理由を目の当たりにすることになった。『最後の秘境 東京藝大』から第1章「不思議の国に密入国」を全文公開する。

立ち並ぶ彫刻とホームレスの皆さま

 藝大のメインキャンパスは上野にある。

 上野動物園。国立科学博物館。東京文化会館。国立西洋美術館。様々な文化的施設が立ち並ぶ街だ。広場では大道芸人が曲芸をしていたり、錦鯉(にしきごい)や盆栽の展示販売会が行われていたりする。アメヤ横丁というパワフルな商店街もあれば、一日中エロ映画を流しているオークラ劇場という怪しい映画館もある。

 駅から広場を抜けて歩いていくと、芝生の中に彫刻がたくさん並んでいるのに気がつく。藝大の学生や教授の作品がさりげなく飾られているのだ。もっとよく目をこらすと、その合間にホームレスが寝転んでいたり、何か食べていたりもする。

 妻は言っていた。

「キャンパス内にもホームレスさんの家があるよ。取手キャンパス(茨城県取手市)には普通にあった」

 僕は聞いた。

「え? それって段ボールハウスってことだよね。守衛さんに追い出されたりしないの?」

「追い出されないみたいだね」

「…………」

「たまに、お菓子を置きっ放しにしてるといくつか取られてる」

 まるで野リスのような扱いである。

 訪れる前から、藝大の懐(ふところ)の深さを感じざるを得ない。

オペラとゴリラの境界線

 藝大に近づくにつれ喧騒(けんそう)が遠ざかり、緑が増えていく。赤レンガの塀の中、校舎が現れた。キャンパスは二つに分かれていて、道路を挟んでそれぞれの校門が向かい合っている。

 上野駅を背にして左側は美術学部、“美校”と呼ばれている。絵画、彫刻、工芸、建築……いわゆる美術に関する学科が、こちらのキャンパスにある。

 右側は音楽学部、“音校”だ。ヴァイオリンやピアノ、あるいは声楽など、いわゆる音楽に関する学科がこちらのキャンパス。

 音楽と美術の両方を擁しているのが藝大の特徴の一つでもある。

 実際にその境界線に立ってみると、不思議な感覚を覚える。

 行きかう人の見た目が、左右で全然違うのだ。

 音校に入っていく男性は爽(さわ)やかな短髪にカジュアルなジャケット、たまにスーツ姿。女性はさらりとした黒髪をなびかせていたり、抜けるような白いワンピースにハイヒールだったりする。大きな楽器ケースを担(かつ)いでいる学生もちらほら。みな姿勢が良く表情が明るいため、芸能人のごとくオーラを放っている。バッハのような髪型の中年男性も見かけた。どうやら教授のようだが……。

 対して美校の学生たちは……ポニーテールの、髪留め周りだけ髪をピンクに染めている女性。真っ赤な唇、巨大な貝のイヤリング。モヒカン男。蛍光色のズボン。自己表現の意識をびりびりと感じさせる学生がいる一方で、まるで外見に気を遣っていないように見える学生も多い。ぼさぼさ頭で上下ジャージだったり、変なプリントがされたTシャツだったりが通り過ぎる。数人に一人は、眉間(み けん)に皺(しわ)をよせて俯(うつむ)き、影を背負ったような顔をしている。

 数分も眺めていれば、歩いてくる学生が音校と美校のどちらに入っていくか、わかるようになってくる。

 音校からはかすかに楽器の音が聞こえてくる。駅に向かう二人組の男性が、何気なくオペラの一節を歌っていた。軽く口ずさむ、という雰囲気なのだが、よく通る美声で音程も完璧(かんぺき)。そして何気なくハモっていて、思わず聞きほれてしまう。声楽科に所属する方だろうか。

 対して、美校からはゴリラのドラミングが聞こえてきた。上野動物園に所属する方だろう。

美校──ものを作る──

 まず、美校を覗(のぞ)いてみることにした。案内役は美校の中でも特に外見に気を遣っていないだろう人物の一人、妻だ。今日の姿は上下抹茶色のジャージ。木屑(きくず)があちこちにくっついているばかりか、頬には白く固まった石膏(せっこう)までつけている。言うまでもなく、化粧はしていない。

「どうせ汚れるしねー」

 それが妻の言い分だ。

 彼女は予備校時代「眉毛繋(まゆげつな)がり」で有名だったそうだ。木炭デッサンの際、集中するあまり額の汗を素手で拭(ぬぐ)う。すると手の墨が顔について、眉毛が繋がってしまう。しばしば髭(ひげ)が生えたりもする。もちろん、それを洗い流さずに平気で過ごしているのは妻くらいなのだが……。

 美校の校門をくぐる時、鉢巻をしてツナギに身を包み、全身泥だらけのおじさん集団とすれ違った。美校では校舎の補修工事か何かをしているらしい。時間帯から言って、ちょうど昼休憩というところだろう。熟練の肉体労働者とおぼしき彼らからは、働く男の汗の匂(にお)いがした……と、その時、妻が言った。

「あれが彫刻科の教授、あれが准(じゅん)教授、あれが助手さんだよ」

 僕は思わず二度見した。どれだけ目をこらしても、やはり工事現場の方々にしか見えない。

 そう、美校では体の汚れは避けて通れない。

 油絵では大きなカンバスに向き合い、筆で塗りたくる。彫刻では巨大な木や石を削る。絵の具まみれ、あるいは泥まみれになる世界なのだ。最低でもエプロン、大抵はツナギやジャージが彼らの制服。炎天下で石にノミを叩(たた)きつけていれば汗もかく。だから鉢巻やタオルを頭に巻くし、日焼けもするわけだ。

 美術は肉体労働なのである。

 美校の中は、いい意味で荒っぽい。

 守衛所の前には巨大なトラックが止まっていた。宅配便のトラックなのだが、よく街で見かけるタイプではない。サイズはタンクローリーほどもあり、荷台が横に跳ね上がる。中には引っ越しと見まがうほどの量の荷物が詰め込まれていて、学生が駆け寄って来ては宅配便のお兄さんと一緒に運び出している。おそらく美術用の材料か、作品だろう。男子学生も女子学生も、力を合わせて大きな荷物を運んでいく。

 少し歩いた先には石だの木だのが大量に転がっている。「三年 野村」などと名前だけ書かれて、野ざらしになっているのだ。材料置き場なのだろう。遠目からは粗大ゴミ置き場に見えるが……。

 不思議なのは、彫像がやたらと多いことだ。茂みの中とか建物の陰とか、とにかく所狭しと林立している。

「なんかいっぱいあるけど、誰なのかよくわからないんだよね」

 妻が言うように、一般的な大学と比べても明らかに多すぎるため、ありがたみがない。

 他にも学生の作品なのだろう、絵や彫刻などがそのへんにぽいと置かれてあり、さながら美術館の倉庫のようだ。

 中には作りかけの彫刻もある。大理石から半分だけ人間が現れていたりして、面白い。片側には躍動感が漲(みなぎ)っているのに、反対側はまだ「ただの石」なのだ。そこでは人間の手によって今まさに芸術が生み出されつつあり、完成品とはまた別の感動があった。

 教授陣が制作中の作品も、あっさりとそのへんに置かれている。こんな大きくて重いものを盗んでいく奴(やつ)もいないのだろうけれど、おおらかなものだなあ。

妻の腕が筋肉質なわけ

 彫刻棟の中に入ってみよう。

 そこはまるで工場だった。天井からは二トンの物体を持ち上げられる強力なクレーンが吊(つ)り下げられ、巨大な加工機械が並んでいる。大きな木を切る機械、石を削る機械と、なんでもありだ。部屋は広く天井も高く、小さめの体育館ほどの空間がある。教授も、四年生も、一年生も、みんな一緒に肩を並べてここで彫刻を作るそうだ。時々、教授たちが回ってきてアドバイスをしてくれたり、あるいは自分から教授に質問しにいくこともある。

 棚にはノコギリだとか、ペンキ缶だとか、いろいろな道具が並んでいる。大小様々なサイズのチェーンソーもあった。

「このチェーンソー、持ってみてもいい?」

「いいよ」

 僕は一番大きい奴を持ち上げてみ……持ち上げてみ……持ち上がらない! 大の男が腰を入れても、簡単には持ち上がらない。その重量たるや、六十キロ。大人ひとりを抱えて持つようなものだ。妻の腕が筋肉質な理由がよくわかった。

「これじゃホラー映画みたいに振り回すのは無理だね」

 少なくとも常人には。妻が頷(うなず)く。

「実際には重みに従って下ろして、縦に切るように使うんだよ」

 なるほど。なお、傍にはハンドクリーナー程度の大きさのものもあった。これなら僕でも振り回せる。ホラー小説の敵役にはこっちを持たせよう。

 工場っぽい外見は、どこまでも続く。

 例えば金属加工を行う部屋では、金属を裁断する機械や、金属を削る機械が置かれている。八人掛けのテーブルほどもある機械で、ばっちんばっちんと鉄板を切っていくのだ。脇(わき)では面をつけて火花を散らしながら、溶接をしている人の姿も見える。鋭い音が響き渡っている。

 謎(なぞ)の実験装置のようなものが、何台も並んでいる。宇宙船の一部のような、金属で覆(おお)われた四角い箱型。扉は固く閉ざされていて、バルブが据え付けられている。これは陶芸で使う窯(かま)だった。点灯しているオレンジのランプは、燃焼中であることを示しているそうだ。たまに中で爆発が起きるらしい。爆発って……。

 版画研究室を覗くと、部屋の中にまるで喫煙所のように区切られ、密閉されたスペースがある。銅版画のために作られた場所だ。銅板に薬品をかけ、化学反応を起こして絵を描くのである。この際に有毒ガスが発生するため、隔離されているというわけだ。これもなかなか怖い。

 染織を行っている教室には、銀色の壁で覆われたシャワー室のようなものがある。これはスチームルーム。強烈な蒸気を吹きかけて、染色するための設備だ。お隣にはぼこぼこ泡立っている大釜(おおがま)。聞くと、水酸化ナトリウム溶液を沸騰(ふっとう)させているらしい。とても危ない。その脇には小さ目のプールが三つ。布を抱え、大釜とプールを行ったり来たりしている女性の姿が見える。布を薬品と冷水に交互に漬けこむことによって行う染色があるそうだ。あたりには様々な色合いの布が洗濯物のようにかけられていて、棚には薬品の瓶がずらり。硫酸だとか塩酸だとか、劇薬の名前もある。

 建築科には構造実験室という部屋があり、そこでは破壊実験を行っている。物体に圧力をかけたり、引っ張ったりする機械が置かれていて、これで素材の強度を計り、建築の設計に応用するそうだ。稼動(かどう)中は轟音(ごうおん)が響く。

 僕はいつのまにか、美術の裏側に入り込んでいた。

 確かに茶碗(ちゃわん)を作るには巨大な窯が必要だし、金属を曲げるには特別な機械がいる。日常の道具は、こうした異世界からやってきていたらしい。ものを作る、とはこういうことだったのか……。そりゃあガスマスクくらい、生協で売るはずだ。

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