政治に関心を持っても、必ずしも「是非」を判断する必要はない? 冷静に前提条件を調べる重要性(古市憲寿)

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 この1年ほどで政治に関心を持つ人が増えたと思う。

 かつてはニュースも観ていなかった企業人がオリンピック開催に激怒したり、政治的発言を控えてきた芸能人が政権批判を始めたり、といった具合だ。

 民主制を採用する国にとっては「いいこと」なのだろう。日本国憲法第12条にあるように、国民の「自由及び権利」は、「国民の不断の努力」によって保持されるものだ。国家を監視する責務が国民にはある。

 同時に全ての政治的態度が「いい結果」をもたらすわけではない。残忍なテロ行為も、マイノリティへの差別も、ぞっとするようなヘイトクライムも、ある意味では政治意識の発露である。

 テロは極端な例だが、政治は対立を生みやすい。「政治の本質は、友と敵の区別にある」という言葉もあるが、むしろ対立こそが政治だと思われている。

 2021年春のテーマは「東京オリンピック開催の是非」であったが、政治に関心を持った人々は、常に何かテーマを発見しては対立を繰り返してきた。この10年でいえば、「原発」「消費増税」「安倍政権」「コロナ対策」の是非あたりだろうか。

 政治に関心を持った人は、踏み絵のように「是非」を問われるか、自ら「是非」を発信するようになる。

 ある新聞社が主催する集会に参加したことがある。「若者が政治に目覚めてほしい」と繰り返す人がいたから、「政治に関心を持った若者が、あなたと同じ意見になるとは限りませんよ。あなたが反対する党派になったとしても、きちんとリスペクトを忘れないで下さいね」と返したら、キョトンとされたことを覚えている。

 その人にとっては「政治に興味を持つ」とは「思想的に自分と同じ陣営になる」ことと同義だったのだ。

 だが政治に興味を持ったからといって、必ずしも「是非」を判断する必要はないと思う。もちろん意見を持つのは自由だが、僕なんかは「まずは冷静になって」と言いたくなってしまう。

 日本のコロナ政策が完璧だとは思わない。例えばIT後進国ぶりに驚く気持ちはわかる。しかしそれは今に始まったことではない。経路依存性という言葉があるが、あらゆる社会は過去に縛られる。「シムシティ」のように、まっさらな土地から世界を作れるわけではない。

 言い方を変えれば、ずっと前から日本は「こんなもの」だ。タクシーでは既得権益者(主に日本交通)の猛烈な反対でUberが部分的にしか参入できていないし、Winny事件では天才プログラマーの人生が台無しにされた。今でこそ政府までがデジタル庁の創設に浮かれているが、日本の国家権力は自らデジタルの萌芽を摘んできたのだ。今は自粛の時代だが、先駆者を畏縮させるのは日本の得意技である。

 もちろん「こんなもの」と諦めるのがいいとは思わない。だけど「こんなもの」に怒り狂っていても仕方がない。是非を決める前に、まず冷静に前提条件を調べてもいいのではないか。まあ、このエッセイのように「結論をはっきりさせろ」と批判されるだろうけどね。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。

週刊新潮 2021年7月15日号掲載

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