渋沢栄一とビール 「キリン」「サッポロ」で果たした重要な役割 飛鳥山邸での要人接待

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園遊会に出た麦酒

 渋沢は、ジャパン・ブルワリーでは株主理事員、札幌麦酒会社では1894(明治27)年に初代会長に就任している。札幌麦酒会社は1906(明治39)年、日本麦酒、大阪麦酒と合併して大日本麦酒になる。

 キリン歴史ミュージアムHPには、渋沢に関するこんな記述がある。

《1901(明治34)年の麦酒税法施行の際には、課税があまりに高いため低減すべきだと請願を出して、日本のビール事業を芽吹かせようとしていました。渋沢栄一はその後もビール事業への支援を続け、ジャパン・ブルワリーの重役は1896(明治29)年まで、大日本麦酒となった札幌麦酒会社は1909(明治42)年まで務めました。》

 明治以降は文明開化と呼ばれるように、さまざまな西洋文化と共にビールを始めとした西洋の食文化も浸透した。渋沢はビールは人々の生活を豊かにし活力を与えると考え、ビール産業に可能性を見出し支援した。ところが本人は、ほとんどビールは飲まなかったという。

「渋沢は、幕末の頃は仲間と日本酒を酌み交わしたそうですが、明治になってからはほとんどお酒を飲まなかったそうです」

 と解説するのは、渋沢史料館(東京都北区)の桑原功一副館長。

「渋沢は、自宅である飛鳥山邸(旧渋沢邸・東京都北区)で、国内外の要人を招いて接待していました。海外の最初の客は1879(明治12)年、アメリカのグラント元大統領でした。それから、ハワイのカラカウア王、1897(明治30)年には、後に大統領となったアメリカのタフト陸軍大臣です。1909(明治42)年に渋沢が渡米した時、タフト氏は大統領になっていました。昭和になってからは、蒋介石も招いています」

 国内の招待客では、徳川慶喜、伊藤博文、井上馨、榎本武揚など、錚々たる人たちが訪れたという。

「お客様を接待する時に供したのがビールでした。渋沢自身は、ビールはほとんど飲まなかったようですがね。招待した客は250組にも上ったそうです」(同)

 敷地2万8000㎡の飛鳥山邸の庭には、月見台があり、そこで招待客を接待したという。

「茶室とつながった『邀月台(ようげつだい)』です。崖下に柱を立て、清水の舞台のような造りとなっています。そこで客に料理や酒、ビール、ワインなどでもてなしたようです」(同)

 園遊会でも、多くの人を招いた。

「飛鳥山邸の庭で行われた園遊会では、屋台も出ました。天婦羅や寿司、田楽、薄茶などがあり、そこでビールも提供されたと記録に残っています。銘柄は書かれてなく、ただ麦酒とだけ書かれていました」(同)

 ちなみに、1877(明治10)年に東京で売り出された開拓使麦酒の値段は、大瓶で16銭、小瓶で10銭だったという。かけそばが1杯8厘の時代で、現在のお金に換算すると大瓶が約3000円。庶民にとってはかなりの贅沢品だったようである。

デイリー新潮取材班

2021年7月14日掲載

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