ギャンブルで燕尾服をゲット! 新1万円札「渋沢栄一」の知られざる素顔
映画「翔んで埼玉」の大ヒットで、思わぬブームに戸惑いつつも喜んでいる埼玉県民に、また一つ朗報が飛び込んだ。
埼玉県深谷市出身の偉人、渋沢栄一が新しい1万円札の肖像に選ばれたのである。今回は自虐の要素は一切なし。掛け値なしのポジティブな話題である。
渋沢の偉業についてはすでにテレビ、新聞で詳しく報じられているので、繰り返すまでもないだろう。「日本資本主義の父」と呼ばれるのはダテではなく、ありとあらゆる業種の企業の創立に携わり、また社会貢献活動に熱心だったことでも知られる。その偉大な業績だけを見ると、いかにも「偉人」という印象を受けるが、豪快かつユーモラスな素顔を持つ人物だったようだ。
渋沢の四男にあたる秀雄(実業家・文化人)や、甥にあたる元治(工学博士・東京帝国大学名誉教授)らへの取材をもとに描かれた伝記小説『雄気堂々』(城山三郎)のオープニングではその人間臭さを示すエピソードが紹介されている(以下、引用は同書より)
数多くの企業、団体のトップをつとめたこともあり、存命中から銅像が作られる機会があったのだが、渋沢は、そういう話が出るたびに
「また雨ざらしにされるのは、ごめんだね」
とまるい顔をしかめたという。そのかいあってか、丸の内界隈の渋沢像のいくつかは、屋内につくられた。
帝国劇場正面玄関の大理石像は、渋沢の古希(こき)を祝ってつくられたものだった。
「明るいふんい気の好きな渋沢は、除幕式には、きげんよく出席した。
各界の名士が行儀よく居並ぶ中で、主催者の福沢桃介(ももすけ)があいさつした。
『……渋沢先生は福徳円満なお顔立ちだが、必ずしも美男ではない』
といったとき、
『ノー、ノー!』
と、大声で叫んだ男があった。当の渋沢栄一である。満場爆笑した」
また、勝負ごとやギャンブルも好きで、それに関連した「明けの大黒」というあだ名もあった。
「勝負ごとが好き。それも、いつもねばり勝ちである。徹夜して、みんながくたびれ、頭がもうろうとした夜明けごろになって力を発揮し、にこにこしながら、まき上げる。『明けの大黒』といわれたゆえんである。
若い頃は、1週間ぶっ続けで花札もやった。幕末、最初に洋行するときに着た中古の燕尾服(えんびふく)は、賭碁(かけご)で手に入れたものであった」
勝負ごと好きは70歳過ぎても変わらなかったようだ。
「四男である渋沢秀雄氏の回想によると、夜10時ごろ帰宅する渋沢は、孫ほども歳(とし)のちがう息子が学生仲間とトランプをやっているところへ、笑顔でやってくる。
『なかなか御精が出ますな』
などといって坐(すわ)りこむ。そのうちに、ポーカーなどおぼえて、仲間に加わった。金のやりとりをするわけでなく、記録の上での勝負だが、それでも熱を入れる。
夜ふけて12時過ぎ、
『きりのよいところで、そろそろおやすみになりませんか』
と、兼子夫人(後妻)が顔を見せる。
『はい、はい、もうすぐおしまいだよ。構わんから、先におやすみなさい』
と、老子爵はうわのそらの返事。
1時、2時、3時……最初は老人の体を案じていた学生たちが、しだいに形勢が怪しくなる。逆に、老人は上り調子」
時間が経ち、夜明けになると「明けの大黒」のひとり相撲になっていく。
「夜が明けきって、渋沢ははじめて我に返る。7時ごろには、もう訪問客がつめかけてくるのだ。
『さあ、さあ、さあ、さあ』
自分を叱(しか)りつけるようにして立上り、畳廊下にスリッパの音を立てて洗面台にいそぎ、羽織を着ると、そのまま客との応接に移って行く。
後には兼子夫人も花札をおぼえ、親子で徹夜して花札をたのしんだりした」
実業家としての能力の高さのみならず、こうした人間臭さがあるのが渋沢の魅力の一つだったのだろう。城山三郎は、同書のあとがきでこう述べている。
「組織が人間を閉塞(へいそく)させた時代から、人間が組織をつくる時代へ。動乱の中の生き方から、組織を率いる生き方まで、渋沢とその時代は、現代に生きるわれわれに、多くのことを教えてくれる気がする」
このあとがきが書かれたのは昭和47年。平成を経て、さらに令和となっても、閉塞感は変わらないようだ。新しい肖像となった渋沢の人生は、それを打破するヒントとなるのかもしれない。