「慰安所日記」研究者が明かす「強制連行」とはかけ離れた実態 「女性たちは結婚、貯金もできた」

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 この「慰安所日記」は、研究者にはすでに知られたもので、韓国では慰安婦強制動員の「決定的資料」とされている。だが原典を正しく読み解くと、まったく違う慰安所の姿が浮かび上がってくる。ラムザイヤー教授はその研究成果を参照して論文を書いたのだ。

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 過度の学歴社会となった韓国では、子弟を外国に留学させることが国民大半の夢である。中でもアメリカの名門ハーバード大学に入学させれば、羨望の眼差しを浴びることは間違いない。ところがここ数カ月、韓国のテレビ、新聞などマスメディアは、ハーバード大学のジョン・マーク・ラムザイヤー教授に対し怒りを顕にして、侮辱的な言葉を投げつけ、大騒ぎしている。周知のとおり、昨年12月に発表された「太平洋戦争における性契約(Contracting for sex in the Pacific War)」という論文が、「慰安婦は売春婦である」と結論づけたことに猛反発しているのである。

「慰安婦は性奴隷である」という前提のもと、「慰安婦歪曲」「野蛮な名誉毀損」などと批判し、「韓国人女性との契約書が示されていない」と非難する。また攻撃は人格にも及び、「親日派として有名」「日本の戦犯企業三菱から研究費をもらった」などと書き立てる。

 米国では、ハーバード大学の韓国人学生たちが非難声明を発表した。一方、韓国には日本に留学した日本研究者が多いはずだが、彼らは沈黙を守るか、逆に反日的発言をすることもある。

 そのラムザイヤー氏の論文に拙著が出てくるところが2箇所あることを教えられたので、遅ればせながら読んでみた。ラムザイヤー論文は、第1章が序文、第2章「戦前の日本と韓国の売春」、第3章「慰安所」で、第4章が結論の4章構成である。その第3章は、さまざまな史料から慰安婦の姿を描き出すものだが、「3・4 契約条件」「3・5 売春婦の貯蓄」という節があり、そこに私の著作が出てくる。

 まず「契約条件」の方は以下のように書かれている。

「契約期間が満了するか、(満了より先に)貸付金を返済すると、女性たちは家に帰ることができた。ビルマとシンガポールの慰安所の韓国人帳場人が数年間、日記をつけていた(Choe, 2017a,b)。彼の勤めた売春宿では、定期的に慰安婦は任期を終えて家に帰っていった」

 後述するが、その「日記」は私が読み解き、日本に紹介したものである。そして「売春婦の貯蓄」の節でも、ラムザイヤー教授はこう記す。

「しかしながら重要なのは、多くの売春宿所有者は、確かに売春婦たちに、多額の前借金を超えたお金を支払っていたことだ。日記の帳場人は慰安婦が口座に預金していたことを記している。彼は定期的に彼女たちに代わって預金していた。そして彼は、彼女たちに代わって定期的にその実家に送金し、受領を確認する電報を受け取ったと記している(KIH,2016a;Choe,2017a,b)」

 末尾の参考文献を見ると、確かに私が2017年に出版した『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実 文化人類学者が読み解く「慰安所日記」』(ハート出版)が記載されている。

22人の慰安婦を連れて

 私はこの著作に格別の思い入れがある。

 その日記はビルマ(ミャンマー)とシンガポールの慰安所で働いた「朴氏」が書いたものである。日記は2000年ごろ、慶州の古本屋から発掘された。1922年から1957年まである長大なもので、1943年1月1日から翌1944年12月31日までに、慰安所の日常が細かく描かれている。ちょうどイギリスの植民地であったビルマとシンガポールを日本が攻略し、さらに侵攻しようという時期である。

 朴氏は慰安所の「帳場人」だった。金勘定をして帳簿に書きつけるのが仕事である。慰安所の「管理人」と言ってもいいかもしれない。

 1905年に慶尚南道金海郡に生まれた朴氏は、代書人事務所に勤務していたが、1942年に慰安婦22人を引き連れビルマに渡った。

「昨年の今日、南方行きの第一歩を釜山埠頭で踏み、乗船し出発した日である。(中略)本当に多難の中の一年であった」(昭和18年7月10日)

 朴氏はインドとの国境付近にあるビルマ西岸アキャブで「勘八倶楽部」という慰安所に勤務していたが、戦況の悪化から1943年1月に後退、5月31日からはラングーンの慰安所「一富士楼」に勤めている。10月から翌年1月31日まではシンガポールのタクシー会社に勤務するが、その間も帳場の仕事に協力しており、2月1日から12月16日まではシンガポールの慰安所「菊水倶楽部」で働いていた。

 日記の原文はハングルと漢字、そして日本語のカタカナとひらがなが混じっている。

 実はこの日記は、2013年に韓国で『日本軍慰安所管理人の日記』として刊行されたことがある。ソウル大学の安秉直(アンビョンジク)名誉教授がハングルに翻刻したもので、当時は日本軍による朝鮮人慰安婦強制動員の「決定的資料」として大きく取り上げられた。日本では毎日新聞だけが報じている。

 私はこの本をすぐさま購入し、一読して読書会のテキストとした。そして日記の原文と照らし合わせ、その記述内容を細かく検討してきたのだった。その結果、そこは決して「日本軍慰安所」と呼ぶような場所ではなく、日記は韓国で受け止められているような強制動員の「決定的資料」とはほど遠いものだと考えるに至った。そしてまずは2014年、「新潮45」に検討結果の一部を発表し、その3年後に書籍化した。

 ラムザイヤー論文は、拙著の中から、慰安婦は年季(契約期間)が明けたり、前渡金を返済したりすれば故郷の家に帰ることができたこと、そして慰安婦たちは貯蓄をして実家に送金していたことを抽出して提示している。ラムザイヤー教授は引用という形で提示していないが、以下の部分を参照したと思われる。まず「契約条件」の節から述べよう。シンガポールの「菊水倶楽部」について日記にはこれらの記述がある。

「(昭和19年)7月9日、金本恩愛とその妹の順愛が今般帰郷のために廃業するといい、主人の西原様は承諾したので、廃業届を保安課営業係に出した。7月12日、(新入りの慰安婦)宋明玉に対する在留証明の手続きが完了し、証明書の下付を受けた。保安課営業係から金本恩愛に対する旅行証明手続きに要する証明書を受けた」

「9月6日、保安課営業係に金永愛の廃業同意書を提出し、証明を受けた。11月5日、特別市保安課営業係の坂口警部のところを訪ね、本倶楽部の仲居の絹代に対する解雇同意書と、稼業婦の秀美の廃業同意書を交付してもらってきた。金本恩愛およびその妹の順愛の両人を連れて特別市保安課分室の旅行係に行き帰還旅行証明手続きを提出した。11月6日、西原様付託の送金をして、秀美の帰国旅行証明申請書を提出した」

「11月15日、稼業婦の金永愛は今日、内地に帰還する船に乗った。11月16日、特別市保安課営業係に行って、帰国した金永愛の酌婦認可書を返納した」

 慰安婦たちはさまざまな手続きを経て、廃業・休業ができたようである。他にも「慰安婦の順子とお染の2名が廃業した」(3月3日)、「慰安婦稼業婦の許琴祥(玉江)は目下妊娠7カ月であるので、休業届を提出した」(7月4日)という記述もある。ちなみに朴氏は、慰安婦も稼業婦も酌婦も同じ意味で使っている。

 慰安婦が結婚したケースもあり、「スマトラのパレンバンからシンガポールに来た宮本敬太郎と、第一白牡丹の前慰安婦で現仲居が、このたび結婚することになり、今夜両国食堂で知り合いを招いて祝賀酒を飲むので行こうと言われて、帰りには白牡丹に寄って祝賀した」(10月25日)とある。

 もっとも慰安婦を辞めるのは簡単ではなかったようで、「村山氏の慰安所で慰安婦をしていたが結婚生活をするために出た春代と弘子は、このたび兵站の命令で再び慰安婦として金泉館に戻ることになった」(7月29日)という記述もある。ここには軍の関与が強く感じられる。

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