「お世話になりました。行ってまいります」北朝鮮工作船に乗り込む直前の若い隊員はそう言った 自衛隊初の「海上警備行動」緊迫の裏側

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 1999年3月23日午前11時。能登半島の東約46キロの海上で、海上自衛隊の哨戒機が漁船を装った不審船2隻を発見、連絡を受けた海上保安庁の巡視艇がこれを追跡――。それが自衛隊発足後、初の「海上警備行動」が発令されることとなる「能登半島沖・不審船事案」の始まりだった。護衛艦2隻が出動、哨戒機P-3Cが上空を飛行、さらに計25回の警告射撃が行われるという緊張状態が、一昼夜にわたって続いたのだった。

「当たっちまう前に止まってくれ!」

 その不審船は、日本人拉致のために派遣された、北朝鮮の「工作母船」であった事実が後に明らかになっている。このとき、護衛艦「みょうこう」に航海長として乗船、真っ暗な日本海で翌朝まで追尾した元自衛官・伊藤祐靖氏は、射撃開始のその瞬間の様子をこう記録している(『自衛隊失格』より、以下引用は同書)。

〈艦長は、目をかっと見開くと、押し殺したような低い声で戦闘号令を発した。

「戦闘、右砲戦! 同航のエコー〈E〉目標!」

 いよいよ訓練ではない射撃が開始されてしまった〉

 この時点では工作母船は、内部では「E」と呼ばれていた。

〈初弾は依然として34ノットで進む工作母船の後方200メートルに着弾させたが、工作母船に減速する兆候はまったく見られなかった。前方200、後方100、前方100と弾着点を工作母船に近づけていった。工作母船を木(こ)っ端(ぱ)みじんにしてしまうギリギリの距離まで弾着点を近づけて、何十発も警告射撃を行った〉

 しかし、工作母船には減速の素振りすらない。伊藤氏はその様子を見て、次第にこう念じるようになっていった。

「止まってくれ! 頼むから、当たっちまう前に止まってくれ!」

 その船には拉致された日本人が乗っている可能性があった。このまま射撃を続けていれば、何かのはずみで、命中してしまう可能性が高くなっていくだけだった。警告のための射撃が、当たってしまっては本末転倒だ。そうなれば、漁船程度の大きさの工作母船など、ひとたまりもない。

 ところが――。

〈(私の)その思いが通じたはずは絶対にないが、工作母船は突然、停止した。

 停止した瞬間に、私の頭の中は真っ白になった。

 なぜなら、停止となれば、次は立入検査をしなければならないからである〉

 何もかもが想定外、自衛隊にとっては突然降ってわいた、初めての経験だったのだ。

 船舶に乗り込んで積み荷の検査をするという行為も、世界的にはまだ行われていない時期のことだった。「みょうこう」の乗組員たちも、立入検査の訓練の経験すらない。実際、「みょうこう」には防弾チョッキの装備もなかった。小銃の射撃訓練はしていても、立入検査に携行する拳銃は、撃ったことはおろか、触ったこともなかったのである。

 そのような彼らが、日頃から高度な軍事訓練を受けている北朝鮮の工作員たちと銃撃戦をする。さらに、拉致されている日本人を奪還する。この真っ暗な日本海の海上で、そんな任務をまっとうできるはずがなかった。しかも、工作母船に自爆装置が装備されているのは、今までの経緯から明らかだった。

 しかし「海上警備行動」は、すでに発令されている。「総員戦闘配置につけ」という副長の艦内放送によって、隊員たちは粛々と準備を整えていったのである。

「誰かが犠牲にならなければならないのなら、それは我々だ」

「手旗信号要員」として立入検査隊に指定されている一人の部下が、伊藤氏に質問してきたのはこのときだ。海上自衛隊では手旗を通信手段として今でも使用しているが、はたして工作母船への立ち入りで、その技術が役に立つのかという疑問だった。しかも深夜のことだ。手旗は振ったところで、誰からも見えるはずもなかった。

 伊藤氏は「彼が行く必要はない」と考えていたと吐露している。しかし口から出た言葉は、その考えとは正反対のものだった。

「国家がその意志を発揮する時、誰かが犠牲にならなければならないのなら、それは我々だ。その時のために自衛官の生命は存在する。行って、できることをやってこい」

 伊藤氏は〈自分の人生観、死生観、職業観を、彼にぶつけた〉という。するとその隊員は、目を大きく見開いてこう応じたのだった。

「ですよね! そうですよね! わかりました! 行ってきます!」

 伊藤氏はそのときの驚きをこう記す。

〈私は、面食らった。

 ええー、「ですよね」だけ? お前、反論しないのか? それでいいのか〉

 伊藤氏は、隊員が反論してくるものとばかり思っていた。

「装備品を整えてから、訓練をさせてから、行かせるべきではないのですか」

「何もしていないのに、行けというのはおかしくはないですか」

 せめてそれくらいは言ってほしかったと、伊藤氏は振り返る。そうした議論があってこそ、命令を下す自分も救われる気がしていたからだ。だから、〈反論をしてくるものだと安心して、持論をぶつけ〉ていたのだった。

「お世話になりました。行ってまいります」

 10分後、個人装備品を装着した隊員たちは、再び食堂に集まっていた。伊藤氏はその姿に、見とれていたという。覚悟を決めた隊員たちは〈悲壮感のかけらもなく、清々(すがすが)しく、自信に満ちて、どこか余裕さえ感じさせ〉たからだ。

 しかし一方で、こうも感じていたのだった。

〈これは間違った命令だ。向いている者は他にいる。彼らは自分の死を受け入れるだけで精一杯で、任務をどうやって達成するかにまで考えが及んでいない。世の中には、「死ぬのはしょうがないとして、いかに任務を達成するかを考えよう」という連中がいる。私は知っている。この任務は、そういう特別な人生観の持ち主を選抜し、実施すべきものなのだ〉

 集まった隊員たちは、出撃のために歩みを始めた。その中に、先の手旗信号要員の若者もいた。彼は伊藤氏の前でいったん立ち止まり、敬礼し、こう口にした。

「航海長、お世話になりました。行ってまいります」

〈30分後に、彼の命はない。私は何も言えず、挙手で答礼するのが精一杯だった。

 彼はふっきれたような表情で前を向き、再び歩み始めたが、5、6歩進んだところで急に振り向いた。

「航海長、あとはよろしくお願いします」〉

 が、工作母船への立入検査は、その直後、中止される。工作母船が突然、発進したからだった。「みょうこう」も急加速、追走したが、北朝鮮の海域に接近し過ぎる可能性が出ていた。

 24日15時30分、海上警備行動終結――。

 こうして北朝鮮との銃撃戦、拉致被害者奪還は、幻に終わったのだった。そしてこの事案での苦い経験が、海上自衛隊「特別警備隊(Special Boarding Unit)」の創設(2001年3月)に繋がっていく。準備室から関わることになる伊藤氏は、次のように考えていたという。

〈あの日、我々は、任務を完遂できる可能性がゼロなのを知りながら、若者たちを死地に送りこもうとした。当事者たちは、すっきりと不思議な満足感に満ちていた。

 あんな目で死地に赴(おもむ)く若者を、二度と出してはならない。

 そのために創(つく)られる特殊部隊である〉

デイリー新潮編集部

2021年6月8日掲載

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