【無罪主張】日立妻子6人殺害の父親が寄せていた手記 「私はなぜ家族を殺めたのか」

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「記憶がなくなってしまった。事件のことはわからない」――。2017年10月、茨城県日立市で発生した「妻子6人殺害事件」。小松博文被告(36)は逮捕後に持病で倒れ、心肺停止状態に陥った。そのために記憶が欠如したと主張、公判で無罪を求めている。果たして犯行当夜、何が彼を衝き動かしたのか? 小松被告はかつて「新潮45」に手記を寄せていた。ここに再掲する――。(※前篇と後篇の2回に分けて掲載。後篇は6月8日掲載予定)

(以下は「新潮45」2018年4月号より再掲)

 ***

妻子と同じ方法で処刑されることを望みます

 昨年(2017年)10月に逮捕された直後は、なぜ私だけ死にきれずに生きているのだろうか、どうにか死ねないものかと、留置場で考えるばかりでした。毎日、県警一課の刑事さんから調べを受け、私はケガをしていたので(編集部注・筆者はやけどの他、手に傷を負うなどしていた)、警察署から車で北へ15分の病院に連れて行ってもらっていました。

 道順は看守さん次第で、大通りを使う人もいれば裏道を使う人もいます。裏道を使うと、子供たちが通っていた保育園や妻が勤めていた病院……一度だけ妻の実家の前を通った時は、手錠をされた手を必死に合わせ、目をつぶっておりました。正直、実感がなくて、心のどこかで、皆あのアパートにいるのではないかなどと考えていました。そう思わないととても生きていられない、というのが本音だったのかもしれません。

 実況見分も行いましたが、記憶が欠落している箇所があり、歯痒い思いでいっぱいでした。刑事さんに「良い思い出のまま、思い出さないほうが幸せということもある」と言われ、改めて自分の罪に気付かされました。すべてをきちんと、逃げずに受け止めなければと、今は考えています。

 起床後就寝前の2回、鉄格子越しに磨りガラスに向かって手を合わせ、日中に般若心経を写経しています。写経は12月の、娘の誕生日から始めました。これ以外に私にできることは、一日も早く死刑判決を受け、執行されることだけです。現在の死刑は絞首刑ですが、私が妻や子供たちにしてしまったのと同じようにして、処刑されることを望みます。

 私が死刑になっても、遺族に対しては何の償いにもならないとわかっています。謝罪の手紙を書こうと便箋を手にしたこともありましたが、私から手紙が行けば余計に傷付けてしまうと思い、止めました。後悔していると、私が言ってもいいのか? 反省している、そんな言葉を使う権利が私にあるのか? 何をもって償ったと言えるのか、誰か教えて下さい。これが本音です。

 裁判で争う気持ちはありません。残された時間、知識を吸収し、考え、ほんの少しでもよいから真人間になりたい。この33年の人生で、私は何を思い、何を考え生きてきたのか、見つめたい。

 もし許されるなら一度だけ、一瞬でもいいから、墓前で手を合わせたいと願うばかりです。

24歳で知り合った妻と長女の夢妃(むうあ)

 妻・恵と知り合ったのは平成21年の5月、私は24歳でした。それまでは千葉県八街(やちまた)市の実家にいましたが、父を亡くし少しはまともにならなければと、知人の紹介で茨城の建設現場で働き始めたのです。その日、誤ってハンマーで手を打ってしまい、いやいや病院に連れていかれました。会計のためロビーで座って待っていると、「ケータイ、落としてますよ」、そう言って私のスマホを拾ってくれた。それが恵でした。

 恵は薬局で事務員をしていました。私が着ていた土木作業用の「ダボシャツ」がマンガ「ドラゴンボール」の珍しい柄で、「そんな、シャツ売ってるんだ」と面白がっていた。こちらに来たばかりで友だちがいないと私は打ち明け、「気が向いたらショートメールでもして」と、その場でケータイ番号を伝えました。学年も同じでしたから。簡単な自己紹介のメールは、その日の晩に来ました。

 それからメールをしたり電話で話したり。会うことはまだありませんでしたが、ひと月ほど経った頃、時々電話の向こうで子供の声が聞こえることに気が付いたのです。聞くと「娘がいる」という。「別居したのは1年少し前で、つい最近、離婚が成立した。3歳の娘がいるんだよ」。それが長女・夢妃(むうあ)でした。

 私は正直、まったく気にならなかった。私の両親も「バツ1」同士でしたし。「じゃあ、今度三人でご飯でも行こうよ」と言うと、恵はこう口にしました。

「別居して、日立に帰ってきて4、5人の人から誘われた。最初はみんなさ、子供も一緒にと言うんだけれど、その後、必ず二人で会いたいと言い始める。夢妃が急に具合が悪くなってドタキャンすると、本当かと疑われる。三人で出掛けても、すぐにあの子も帰りたがるし」

「1度目の結婚生活を思い出すと体が震えて…」

 実家を出て、県営団地を借りたと連絡があったのは、出会って2カ月後の7月半ばです。親には反対され、消費者金融からも工面したそうですが、訪ねると、風呂釜や家財道具もなかった。古いコンクリート作りで、30棟近くある団地の、階段脇1階に部屋はありました。その晩に初めて作ってくれたのが、焼うどんです。キャベツ、玉ねぎ、ウインナーに塩と胡椒で味付けしてあるだけの簡単な料理でしたが、これ以降、私の大好物でした。

 私は水戸のドン・キホーテで、アンパンマンの「ままごとセット」を買って用意していました。夢妃がアンパンマンが大好きと、聞いていたから。私たちがテレビを見ていると起きてきて、初めて会いました。プレゼントを手渡すと、「ありがとう」と、はにかみながら口にしていたその表情は、今も折に触れ思い出します。

 3日後の日曜日、私たちは三人で、県南部・阿見町にあるアウトレットモールに出掛けています。嫌がったらどうしようと気にしていると、夢妃は「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と手を握ってくれた。トイレに行った二人を待ちながらひとり「サーティワン」に並んでいると、人ごみの中に二人が手を繋いで帰ってくる姿が見えました。私はそれを目にして、「この人と一緒になるのかも」と思ったのです。

 恵の様子がおかしくなったのはその帰り道、高速で水戸に入ろうというあたりでした。助手席で下を向き、ハンドルを持つ私の左手をギュッと握る。驚いて「どうしたの?」と聞くと、「1度目の結婚生活を水戸でしていて、当時のことを思い出すと身体が震えて止まらなくなる」という。精神科にも通い、一時は薬を飲んでいたと。発作はそれからも続き、この後も1年ほどは恵と水戸に行くことは一切ありませんでした。

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