バルセロナ五輪で前代未聞の失格… レスリング元代表「原喜彦さん」が振り返る“あの日”

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確定していた入賞もフイになってしまった失格

 原氏は「『メダルは確実だったのに』みたいに惜しんでくれる人もいたけど、当たるはずのイラン選手は強いし、反対ブロックで過去に勝っていたポーランド選手と順位決定戦をやって何とか5位かなあと思っていました」と控えめだ。ところが、そこまでに決めていた6位の入賞すらフイになってしまったのだ。

 レスリング、ボクシング、柔道など階級別の格闘技では計量失格はつきもの。最近のレスリングでも男子フリー57キロ級で、リオデジャネイロ五輪銀メダルの樋口黎が今春のアジア選手権で50グラムの体重超過で失格。これで、12月の天皇杯(全日本選手権)で樋口に敗れながら世界最終予選でこの階級の五輪出場枠を獲得した高橋 侑希が息を吹き返し、6月12日に代表かけたプレーオフが行われる。

 とはいえ、バルセロナ五輪当時のルールでは、計量をしていれば体重超過で失格してもそこまでの記録は残る。原選手は計量していれば体重オーバー失格でも6位にはなっていた。しかし、計量の場に姿を見せなければ試合放棄とみなされてしまう。(そこまでの記録が認められ、成績は11位となっているが現在なら順位なし)。

「私は取り乱したりませんでしたが両親も来てくれ、母と妻は泣いていました。記者会見の時はさすがに私も涙が出てきましたね」と振り返る。当時、通信社でレスリングを担当していた筆者は現地取材には行かせてもらえなかったが、テレビで見た、原選手や家族がうなだれる姿を覚えている。

 急な変更とはいえ、他国は間違えていない。失態には別の背景もあった。バルセロナ五輪ではまだ女子のレスリングはなく、日本はフリー68キロ級の赤石光生が銅メダルを取るのがやっと。「お家芸」が不振を極める中、原選手の「運命の日」も、唯一のメダルの望みをつないだ赤石の三位決定戦にばかりにスタッフの頭が行ってしまったこともあった。

 1964年の東京五輪から続いていたレスリングの金メダルも途絶え、原氏の日体大時代の恩師藤本英男氏が「協会の責任だ」と激しく怒るなど、コーチ陣から怒号が飛び交い、険悪な空気になっていたという。平山監督は責任を取ってレスリング界を去った。

 男子レスリングの金メダルはソウル五輪の二人(小林孝至・佐藤満)を最後に、ロンドン五輪(2012年)のフリースタイル66キロ級優勝の米満達弘まで金メダルゼロの「冬の時代」が続く。原喜彦選手の前代未聞の「失格」は、それを象徴する悪夢だった。

「あの時の嫌な空気に似ている協会」

「こんな詳しく話したのは初めてですよ」と筆者に語った原氏だが、当時、「監督、コーチとともにオリンピックを目指してきた。みんな仲間です。仲間のミスを責めることはできません。コーチの方々に謝られ、その度に心苦しい思いでいっぱいでした」と語っていた。

 現役時代、最高の檜舞台で信じられないような辛い経験をした原喜彦氏は重要な試合の審判を務めながらも協会中枢部の真っただ中とは距離を置いて冷静にレスリング界を見つめている。「バルセロナの時、成績不振や私の思わぬ失格などで協会幹部が罵りあっていた嫌な空気に似たものを今、感じなくもない。協会幹部を中傷したり、協会内での地位に不満を言ったり、自分の所属組織を有利にするようなことばかり主張して選手そっちのけです。東京五輪があるなら、つまらぬ争いをしている暇はないはず。一枚岩となって臨んでほしい」と訴える。吉田、伊調ら超人的スターがマットを去った後、男女ともに若手を成長させて「お家芸」をどう運営するのか、協会の手腕が問われる。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」「警察の犯罪」「検察に、殺される」「ルポ 原発難民」など。

デイリー新潮取材班編集

2021年6月6日掲載

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