「青天を衝け」ファンにオススメの名城リスト 渋沢栄一ゆかりの地も

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江戸幕府大老の城

 安政の大獄を断行し、桜田門外の変で討たれた大老の井伊直弼は、十四男として生まれ、2017(平成29)年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」ゆかりの城でもある彦根城(滋賀県彦根市)内の埋木舎(うもれぎのや)で、文武両道の修練に励んでいたが、兄が次々に亡くなり彦根藩主となった。

 直虎が育てた直政が家康のもとで武功を挙げて大出世し、関ヶ原の戦いの功績により近江・佐和山18万石を拝領。長男・直継が1604(慶長9)年から彦根城を築き、後継した弟の直孝が完成させた。豊臣家との決戦を見据え、「天下普請」で築かれた徳川一門の城であり、戦いを想定した設計が特徴だ。

 国宝の天守は、高さ約21メートルと小ぶりながら、さまざまな破風が飾られ粋な雰囲気が漂う。外観とは対照的に内部は実戦仕様。美観を損なわずに実用性を高めるこだわりが感じられる。

 ちなみに直弼が討たれた桜田門外の変の現場は、江戸城の外桜田門の前。現在の警視庁本部庁舎前にあり、桜田門は登城時の通用門だった。彦根藩邸(現在の憲政記念館)からは500メートルほどしかない。坂下門外の変で襲撃された老中の安藤信正も、屋敷から江戸城坂下門までのわずか100メートルの間に襲われた。

 13代将軍・家定の継嗣問題で、家茂を推す南紀派が直弼を大老に推した一方で、慶喜を推す一橋派が大老に推したのが、福井藩16代藩主の松平春嶽(慶永)だった。田安徳川家3代・徳川斉匡の八男で、四賢侯のひとりと謳われる開明派だ。

 福井藩の福井城(福井県福井市)は、関ヶ原の戦いの後に越前北庄に入った家康の次男・結城秀康により築かれた。柴田勝家の居城だった北庄城を取り込んで大改修されたようで、本丸と二の丸は家康が自ら縄張をしたとされる。68万石の大大名にふさわしい、4重、5重に堀がめぐらされた立派な城だった。

 2017年に復元された本丸西側の山里口御門は、山里丸と本丸をつなぎ、「廊下橋御門」「天守台下門」とも呼ばれる。藩主の住居である御座所は幕末には西三の丸にあり、春嶽は御廊下橋を渡り、山里口御門をくぐり抜けて本丸へ向かったようだ。

栄一が襲撃を計画した城

 栄一が襲撃を目論んだ城もある。もともと尊皇攘夷派だった栄一は、尾高惇忠や渋沢喜作らと攘夷蜂起を目的に同志を組織。高崎城(群馬県高崎市)を乗っ取って武器を奪い、横浜の外国人居留地を焼き討ちする計画を立てていた。実行されなかったが、これを機に1863(文久3)年に京都に逃れ、平岡円四郎の働きかけで慶喜に仕える。

 高崎城は、井伊直政が1598(慶長3)年に家康の命で築いた。中山道と三国街道の分岐点にあるため重視され、江戸時代には譜代大名が城主を務めた。

 三の丸を囲む土塁と外堀が残り、広大な城を偲ばせる。現存する乾櫓は17世紀末頃の改築と推定され、本丸の北西(戌亥の方角)から現在地に移築された。

戊辰戦争の勃発と激戦地

 京都へ移り武士への身分上昇を遂げた栄一は、一橋家の家臣として政務に励んだ。一橋家の京都屋敷は二条城(京都府京都市)近くの小浜藩京都藩邸で、栄一は喜作とともに三条小橋の宿から通った。

 1867(慶応3)年には、栄一はパリ万博に将軍の名代として出席する徳川昭武に随行してフランスへ渡航。滞在中に行ったヨーロッパ各国の視察が、後の功績に多大なる影響を与えた。

 一方、国内では戊辰戦争が勃発。1867(慶応3)年10月15日に大政奉還が勅許されるも、旧幕府軍は反発し、1868(慶応4)年1月2日の鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、各地で内戦が繰り広げられた。喜作は彰義隊を結成して頭取に就任、栄一の見立養子となった渋沢平九郎は、数奇な運命を辿る。

 鳥羽・伏見の戦いで敗れた旧幕府軍は、反撃の拠点とすべく淀城(京都府京都市)へ向かったが、淀藩は入城を拒否。淀城は現職の老中である稲葉正邦の城で、そもそも2代将軍・秀忠が松平定綱に築かせた徳川方の拠点だった。それが新政府軍の勝利に一役買うとは、皮肉な話である。

 秀吉の淀城を廃して築かれた淀城には、伏見城の資材が転用され、天守は家康が1601(慶長6)年に建てた二条城の天守を移築したとされる。完成の翌年、1626(寛永3)年6月には秀忠が、同年8月には3代将軍・家光が来城したとされている。

 二条城から大坂城(大阪府大阪市)へ移っていた慶喜は、鳥羽・伏見での敗北を機に江戸に退却。江戸城は4月11日に無血開城したが、その後も関東や東北地方で戦いは続行。中でも激戦の舞台として知られるのが、宇都宮城(栃木県宇都宮市)や白河小峰城(福島県白河市)、二本松城(福島県二本松市)などだ。

 宇都宮城は、1868(慶応4)年4月の2度の攻城戦により、城内の建物や城下が焼失。第2次大戦後の開発もあり名残は少ないが、本丸の土塁が一部残り、石垣より土塁を主に用いた関東の城らしさを感じさせる。富士見櫓や土塀が復元され、現在は宇都宮城址公園として整備され訪れやすい。

 奥州と関東を結ぶ要衝、白河小峰城は、新政府軍が7度も奪還を試みられた壮絶な戦いの舞台となった。1991(平成3)年に「白河城御櫓絵図」をもとに復元された三重櫓は、激戦地となった稲荷山の杉の大木を用材として使用。鉄砲の鉛玉や弾傷の残る木材が加工され、柱や床板、腰板などに痕跡が認められる。

 二本松城は、少年隊士(二本松少年隊)も犠牲になった悲劇の城だ。数え年12~17歳の少年も戦場へ向かい、落城後に城内の建物は焼き払われた。現在は本丸の石垣、箕輪門や多聞櫓が復元され、登城口となる千人溜に、二本松少年隊の顕彰群像が立つ。

戊辰戦争終結の城

 東北地方の戦いは、2013(平成25)年の大河ドラマ「八重の桜」で描かれた会津若松城(福島県会津若松市)の開城で終息する。

 この城は蒲生氏郷が築き、1639(寛永16)年に加藤明成が大改修。現在の天守は、明成が建てた天守をモデルに1965(昭和40)年に復元された。戊辰戦争で時に1日2500超の砲弾を浴びながら約1カ月も持ち堪えたが、1874(明治7)年に破却。取り壊し直前に撮られた写真のおかげで、外観を忠実に再現できた。2011(平成23)年には、天守などの瓦が赤瓦に葺き替えられ、幕末の姿がよみがえった。

 本丸から北出丸へ抜ける太鼓門の枡形や、北出丸の堀沿いにある防御設備、大腰掛も見どころだ。侵攻されても四方から迎撃可能なことから、北出丸は“みなごろし丸”とも呼ばれる。戊辰戦争時も、新政府軍はここを突破できなかったという。城内唯一の現存建造物は、市内の阿弥陀寺に移築されている御三階。3層4階の櫓で、密議や物見に使用された。阿弥陀寺には戊辰戦争の戦死者が埋葬されている。

 戊辰戦争の終結の地となったのは、前述の松前城や福江城と同じく国防目的で築かれた五稜郭(北海道函館市)だ。1854(安政元)年に日米和親条約が締結され箱館開港が決定すると、幕府は箱館奉行を新設。奉行所は箱館山麓に開設されたが、外国軍艦の大砲の射程内(約2・5キロ)だったため、海岸線から約3キロ離れた地に移転した。

 五稜郭は、五つの郭(稜堡)を並べた西洋式の城の総称。星型の頂点の部分に稜堡を一つずつ並べ、土塁、石垣、水堀で囲む。さらに正面にあたる星型の凹みの部分に、半月堡という堡塁を配置。大砲の射程を考慮して広い堀幅を設け、壁には石垣ではなく土塁が採用された。大砲が照準を合わせられないように高層建造物は建てず、高さ5~7メートルの土塁で覆い隠す構造になっている。

 2010(平成22)年に復元された箱館奉行所庁舎は、屋根に太鼓櫓が載った珍しい建物だ。戊辰戦争では目印となって新政府軍に大砲の照準を計算されてしまい、砲撃を浴びたという。

姫路城も朝敵の城に

 戊辰戦争は全国諸藩を二分する画期で、各藩が翻弄された。8棟の国宝と74棟の重要文化財を擁する世界文化遺産の姫路城(兵庫県姫路市)も危機を迎えた。姫路藩の9代藩主で老中の酒井忠惇が慶喜に随行したため、朝敵となって追討の対象とされたのだ。無血開城したため激戦の舞台にはならなかったが、成り行き次第では美しい天守群も焼失していた可能性がある。

 松山城(愛媛県松山市)、備中松山城(岡山県高梁市)、高松城(香川県高松市)、福山城(広島県福山市)なども、朝敵の城となった。よくぞ生き延びたものだと胸にこみ上げるものがある。

 動乱を乗り越えた城は、廃藩置県により役割を終え、1873(明治6)年に廃城令が公布されると次々に取り壊された。戦国末期から江戸初期に華々しく誕生し栄華を誇った城は、ここに終焉を迎えたのだ。激動の時代を生き抜いた城を通し、幕末に思いを馳せてみてはいかがだろうか。

萩原さちこ(はぎわらさちこ)
城郭ライター。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演などを行う。著書に『江戸城の全貌』『城の科学』『地形と立地から読み解く「戦国の城」』など。他、連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事。https://46meg.com

週刊新潮 2021年5月6日・13日号掲載

特集「落ち着いたら行きたい激動の舞台『青天を衝け』あの名城」より

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