子どもが身に付けるべき「非認知能力」とは 将来の年収、生活の豊かさにも影響

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認知能力と非認知能力の関係

 ヘックマン氏の結論は、「幼児教育は投資効果が高い」である。ただそれは、あくまでもアメリカの貧困家庭において、幼少期に適切な教育プログラムを提供することで、彼らが将来的に社会からドロップアウトしてしまう可能性を減らす効果が期待でき、社会全体としての投資効果が大きいという意味だ。従って、そのまま日本の社会に適用できるものではないとの意見が強い。

 ましてや、幼児教育にお金をかければ偏差値50の子どもが偏差値60になるというような話ではない。ところが「幼児教育は投資効果が高い」という言説だけが一人歩きし、幼児教育にお金をかければ、非認知能力が高まって、将来の年収が増えるかのような幻想が広まった。この「誤解」が現在の非認知能力ブームを招いたと言っても過言ではない。

 OECD(経済協力開発機構)は2015年、「非認知的スキルの状態はのちの認知的スキルの状態を予測するが、認知的スキルの状態がのちの非認知的スキルの状態を予測するという関係は認められなかった」との内容を含むレポートを発表した。すなわち、非認知能力が認知能力を高めることは期待できても、認知能力そのものが非認知能力を高めることは期待できないというわけだ。

 この字面がまた一人歩きした。「幼児期には非認知能力を高めるべきで、認知能力はそのあとにすべきなんですよね」と、私も何度も聞かれた。たしかに認知能力はあとからでも詰め込める。しかし認知能力を身に付けようとすると非認知能力が身につかなくなるというような単純なトレードオフの関係ではない。むしろ認知能力と非認知能力は密接にからみあっている。

 公文式の教室がいい例だ。そこでは、計算ができるようになったり、国語や英語の読解ができるようになったりと、認知能力のど真ん中を鍛えられる。しかし成果を出すためには、毎日決められた枚数のプリントをコツコツこなすことが求められる。1問でも間違ったらやり直し。100点満点になるまで次のプリントに進めない。しかも、公文の先生はやり方を教えてはくれない。プリントにある例題の解法を見てパターンを認識し、自分で解き方を学ばなければいけない。この活動を通して、計画性や根気、自学自習の態度や学習習慣が身につく。これらはまさに非認知能力に分類されるものである。

 習い事としてのピアノも同様だ。教室に通うのは週1回でも、毎日課題曲を練習しなければいけない。間違えたらやり直し。心が折れそうになることもある。それでも目標に向かって努力を続けなければいけない。そうしたなかで、ピアノが弾けるというスキルだけでなく、折れない心や自制心、忍耐力などが鍛えられる。

 ある東大生の保護者は次のように語る。

「子どもが小さいころから気を付けていたのは、あきらめないこととか、一度始めたら続けるとか、努力の持続とか、目標をもつことの大切さとか、そういうことでした。つまり、それが認知能力を高めるうえで欠かせない姿勢であって、将来の生きる力にもつながるはずだと考えました。勉強も詰め込みではなく、常に考える姿勢をもち、好奇心を養う。知識は必要ですが、そういう姿勢ができていてこそ、学ぶ意欲も生まれ、生涯にわたって学んでいこうという姿勢も生まれるのではないでしょうか」

 非認知能力だけを直接的に高める方法などないだろうし、それを目的にすべきではないと私は思う。

 非認知能力とは日本語の「間(ま)」のようなものであると私自身はとらえている。個々の認知能力のあいだをつなぐもの。いくら認知能力は高くても非認知能力が足りないと「間抜け」になる。見た目にはマッチョでも、それぞれの筋肉を連動させる訓練が不足していれば十分な力が発揮できないのと同じだ。

 その「間」自体、冒頭の川原の場面のように子どもたちの自由になる「時間」「空間」「仲間」の「三間(さんま)」の中で育つ部分が大きい。

 幼児期を逃したら非認知能力は伸ばせないのか。そんなことはない。たとえば「やり抜く力」については、さまざまな方法で鍛えることができるし、むしろ年齢を重ねるにつれ強くなる傾向がある、と心理学者のアンジェラ・ダックワース氏は述べている。

ブレンドは一人一人違う

 前述の通りヘックマン氏は「幼児教育は投資効果が高い」と主張しているが、それはあくまでも社会全体としての税金の使い方を比較した場合の話であって、幼児期を逃したら非認知能力が育たないなどとは決して述べていない。実際、14年11月17日の日経ビジネス電子版で、次のように証言している。

「子供に課題を与えて、毎日来させて、計画・実行させ、最後に仲間と一緒に復習をさせる実験をしました。1日2、3時間、小学生に対して2年間毎日実施しました。追跡調査の結果、この経験がその後の人生において大きなスキル向上につながっていたことが分かりました」

 この実験、何かに似ていないだろうか。そう、中学受験勉強にそっくりなのである。約3年間という子どもにとってはとてつもなく長い時間をかけて、とてつもなく長い道のりを最後まで歩ききったとしたら、12歳の時点で身に付けていてほしい「やり切る力」としては、おつりがくるほどだ。親がお尻を叩きすぎて、学習への意欲や自己肯定感を潰していなければという条件付きでの話ではあるが。

 また、そもそも非認知能力は測定が難しいので「○○をやって××という非認知能力が伸びた」という明確なエビデンスがあるわけではないが、幼少期であれば習い事、思春期であれば学校での部活や行事運営での経験が、さまざまな次元での非認知能力の向上に役立ちそうである。それは感覚的に間違いない。

 たとえば習い事としてサッカーをやっている場合。最初は楽しくボールを追いかけているだけで、ある程度まではうまくなる。しかし、もっとうまくなりたいと欲が出てくると、どこかで壁にぶち当たる。そこでうまくなるための練習を考えて、毎日実行する。つらいときもあるが、それを続けることで、壁を乗り越えられる。そして新たな次元の喜びを覚える。

 このような体験から得られるさまざまな「力」を何と呼べばいいのかわからないが、非認知能力に属するものであることは間違いない。そしてこれはサッカー以外のことにも流用可能だ。つまり、サッカーという習い事から得られるものには、ボールがうまく蹴れるという限定的なスキルのみならず、どんなことにも流用可能な非認知能力が含まれるといえる。

 この「夢中→上達→挫折→克服」のサイクルで得られるものすべてが、習い事がもたらす本質的な賜物だ。つまるところ習い事なんて、子どもが夢中になって始められるものなら何でもいいのだ。中高生の部活や行事運営の体験では、ここにさらに人間関係的スキルが大きく係わってくる。

 畢竟するに、日本の一般的な幼稚園や保育園に通っていれば幼児教育としては十分で、さらにどこかのタイミングで受験勉強をやり切り、反抗期を存分に堪能することで自分のなかに確固たる価値軸をつくり、同時に友人たちとの濃厚な人間関係を経験することができれば、ヘックマン氏らが着目するところの非認知能力は自然に十分に身についているはずなのである。

 そしておそらく「これからの時代に特に重要な非認知能力は何か」という問いに意味はなく、子どもが自分らしい人生を送るために必要な非認知能力のブレンドは、一人一人違う。

 つまり、非認知能力という概念が登場したからといって、親として何か新しい教育に取り組まなければいけないわけではない。私の知る限り、非認知能力に着目する学者たちの主張の大筋は、「いままでの教育に非認知能力育成のための教育を追加しろ」ではなく、「学びの意味は、結局何点取れたかではなく、経験そのものにある」だ。

 そもそも非認知能力と言われるような力は、冒頭の川原の場面のように、昔なら幼少期から子ども同士の自発的な遊びのなかで培われていたものである。

 井本氏の「森の教室」のような環境で毎日過ごせれば理想だが、必ずしも川や森が必要なわけではない。子どもたちが自由にできる「三間(さんま)(時間、空間、仲間)」があればあるほど「ソーシャル&エモーショナルスキル」のような広範囲な非認知能力が育つと考えられる。お爺ちゃんやお婆ちゃんと昔遊びをするだけでも、「Big5」のような非認知能力が刺激されるはずだ。あるいは、習い事や部活や受験勉強でも「自制心」や「やり抜く力」のような非認知能力は育つ。難しく考える必要はないのだ。

 非認知能力とは、「幸せの青い鳥」のようなものなのかもしれない。

おおたとしまさ
育児・教育ジャーナリスト。1973年東京生まれ。麻布中高卒、東京外国語大中退、上智大卒。リクルートから独立後、教育誌等のデスクや監修を務める。中高教員免許を持ち、私立小での教員経験もある。「受験と進学の新常識」(新潮新書)など著書多数。

週刊新潮 2021年4月22日号掲載

特集「『右脳学習ブーム』の再来 教育界で話題沸騰『非認知能力』を身につける術」より

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