孫文の「肝臓」ミステリー 一時、旧日本軍が保管していたという数奇な運命を辿る

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 清朝を倒し、共和国の樹立を目指した革命家・孫文。辛亥革命を経て中華民国の建国を宣言、臨時大総統に就くが、皇帝の退位と引き換えに、清朝の実力者で北洋軍閥を率いる袁世凱にその地位を譲った。その後、自ら皇帝となり帝政を復活させた袁世凱と対立し、袁亡き後は北洋軍閥との闘争に突入していく。1924年11月、北洋軍閥の将校・馮玉祥(ふう・ぎょくしょう)らの要請を受け北京を目指すも、体調が急変。翌年3月12日、「革命いまだ成らず……」という言葉を遺して北京にて客死する。死因は肝臓がんだった。

 革命の中核をなした中国同盟会を日本で立ち上げるなど、日本とも浅からぬ関係を持つ孫文の最期について、日本人が知るのはせいぜいこの程度だろう。ところが、孫文の正当な後継者であると相譲らない共産党政権下の中国大陸と国民党政権下の台湾では、彼の“死後”をめぐり、いまだ決着をみない議論がある。孫文の「肝臓の行方」だ。日中戦争と国共内乱という混乱期の出来事でもあり、肝臓が行方不明になった経緯には神妙なストーリーが付きまとう。中国メディアの報道などを基にその内幕を追ってみよう。

秘められた肝臓の保管

 孫文は生前、自分の遺体はレーニンと同じようにエンバーミングするよう、妻の宋慶齢(そう・けいれい)に言い遺していた。処置を施した北京の協和医院は、摘出した臓器は焼却したと発表した。だが実は、遺族や党の要人にも告げず、ホルマリン漬けの肝臓と病理切片、パラフィン包理標本を収蔵していたという。諸々のストーリーは、そのありえない所業を起点として展開していく。なお、遺体はその後、保存環境の不備などから土葬に変更された。

 今に伝わる肝臓の行方は、焼却処理されたという説と、中国南京市郊外の中山陵(孫文の墓)に孫文の遺体と一緒に納められたという説、国民党が台湾に撤退する際、息子の孫科(そん・か)が台湾に持ち去ったという説の3つがある。いずれも落としどころは至極真っ当なのだが、その諸説に行きつく過程で肝臓は2度も盗難の憂き目に遭った。最初の窃盗犯に挙げられたのは旧日本軍である。

 80年代に孫文の肝臓窃盗に関する中華民国時代の資料を発見し研究したという南京市档案局副局長・王菡(おう・かん)が「揚子晩報」の取材に対して証言した。この記事は2014年1月24日付けの共産党機関紙「人民日報」にも転載されており、概要は次の通りだ。

 1942年初春、ロックフェラー財団が設立した北京の協和医院を日本軍が接収したときに同院の研究室で臨床記録報告書を含む孫文の肝臓などを発見。2人の日本軍将校がカルテ保管庫から孫文に関するすべての資料を持ち去った。この情報が南京“偽”汪兆銘政権(中華民国国民政府)に伝えられると、ひどく焦った汪兆銘は“偽”外交部長の褚民誼(ちょ・みんぎ)を派遣し、日本大使館北平事務所や日本軍“侵華”総司令の岡村寧次と肝臓の返還について交渉させた。話はまとまり、日本軍は肝臓を差し出し、褚民誼が南京に持ち帰ったという。

 記事には日本領事館や岡村大将という固有名詞が出てくるが、日本でこの一件に関する資料は今のところ見当たらない。孫文の側近だった汪兆銘は、蒋介石と袂を分かち平和的解決を目指す親日政権を打ち立てたが、日本が敗戦し賊軍となった汪政権の要人は多くが売国奴として蒋介石の重慶国民政府によって処刑された。原文の「偽」という漢字は「人々が支持しない」「かすめ取った」などの意味があり、敢えて売国奴に冠することで、官軍側の正当性を強調しているようなものである。

 なお、孫文の肝臓をひそかに保管していた協和医院では、同時期に世紀の発見といわれた北京原人の頭蓋骨(1929年、北京市南西部の房山県周口店で発掘)を保管していて、戦火を避けアメリカに移送する途中で紛失してしまう。その行方をめぐり「消えた化石のミステリー」として、やはり日本軍が日本に運んだというのが有力説となっている。

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