「将来を志村さんに捧げようとしていた」 志村けんさん“最後の女性”が明かす、死の直前の“異変”

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 没後1年でもその「不在」を惜しむ声は後を絶たない。稀代のコント師・志村けん(享年70)。共演者と数多くの浮名を流してきたことでも知られる彼が口説いた「最後の女」がその本当の「最期」を語った。

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「私は尊敬する志村さんに人生を懸けてみようと思っていたんです。その矢先に突然亡くなってしまい、大きなショックと喪失感を抱えたままこれまで過ごしてきました……」

 そう語るのは都内在住の元タレント、田崎優里さん(仮名)。おっとりとした話し方が印象的な現在30代の美女である。

「知り合ったのは5年ほど前です。知人に誘われて志村さんの誕生日会に参加したのがきっかけでした。それから多い時で月に数回、お食事にお誘いいただくようになりました。二人きりのときもあれば、他の女の子がいたときもありました。口説かれたこともあったけど、身体を許したことはありませんでした」

 プライベートの“志村ガールズ”のひとりに過ぎなかった彼女が、志村にとっての「特別な存在」となったのは、2020年に入ってからだった。

「週に3回から4回は会うようになったんです。待ち合わせは麻布十番のスパが多かった。二人で岩盤浴を楽しみ、好きな飲食店をはしごしていく、というのが定番のパターンでした。それほど頻繁に誘われるようになったのは、志村さんの周囲を支える“チーム志村”の体制が変わろうとしていたからだと思います」

 志村には仕事とプライベートを支えるメンバーとして、マネージャー、運転手、付き人、家政婦がいた。

「マネージャーは所属するイザワオフィスの方、運転手は元々芸人さんで志村さんのお弟子さんだった方でした。この二人は男性なのですが、残りの付き人と家政婦は女性で、付き人は仕事など家の外のことを、家政婦は家の中のことをお世話するのが仕事でした。ただ、付き人だったその女性が妊娠して辞めてしまい、私を頼ってきたのではないかと思います。実際、昨年2月には“付き人できる?”というLINEをいただいて、麻布十番にマンションも用意してくださるという話もあった。どうしようかなあ、と悩んでいたんです」

 大物芸能人からの誘いに困惑する優里さん。それが志村へと気持ちが傾き、「決心」にまで至ったのは、とある食事会がきっかけだった。

「かなりの頻度でお食事をご一緒させていただいていたので、次第に女性としても本命ではないかと思うようになりました。志村さんは“将来のことを考えて、家に入ってもらいたいんだ”と言ってくださり、志村さんの運転手さんからも“優里さんが本命だと思うよ”と聞いていました。決定的だったのは、志村さんの古稀を祝う会に、ご親族とともに呼んでいただいたことでした」

 昨年2月25日、志村が行きつけの麻布十番の寿司店で、志村の2人の兄やその家族を招いての食事会が開かれた。2月20日で70歳を迎えた志村を祝う会だった。

「他に誘う女性はたくさんいたはずなのに、私を選んでくれて素直に嬉しかったんです。私はずっと緊張していて、ひたすら皆さんにお酌をしてまわりました。志村さんからお兄さんたちには“一緒になる女性だから”と紹介してくださいました。散会する時に志村さんはお兄さんの家族にお車代を渡してから、私を六本木にある『バカラ』が運営するバーに連れて行ってくれたんです」

 そこは、志村が女性を口説く時によく使う店だったという。

「ひとしきり飲んでから、帰り際、運転手さんがドアを開けていてくれたところで最後キスをされて……。とても恥ずかしかったのを覚えています」

 タレント活動をしていた優里さんを慮(おもんぱか)り、夏に予定されていた志村主宰の舞台への出演も約束されていた。ところが、“異変”が起きたのはその翌月、3月15日のことだった。

「額に痣が…」

「その日は豆源という麻布十番の豆菓子屋さんで18時半に待ち合わせをしていたんです。でも、時間を過ぎてもやってくる気配がない。志村さんは時間に厳しい方なので、遅れることはめったにありません。おかしいなと思ってLINEにメッセージを送っていたら、30分ほど経って、ようやく返事がきました」

 だが、そのメッセージは、

〈Iどこ !ですすか??〉

〈ガフフエ いきます〉

 と、意味のとれない言葉になっていた。

「実際に会うと、ふらふらして今にも倒れそうな歩き方でした。蕎麦屋に入っても箸から食べ物がこぼれて、まともに食事ができない。仕方なく私が食べさせてあげるような状態でした。それなのに、“もう一軒行きたい”と言うので、車で移動すると、その車中で“昨晩、自宅の階段から転げ落ちて1時間ほど気を失っていた”と話していました。確かに、両腕には擦り傷があり、額にも痣と擦り傷があったんです。次に入った鉄板焼き屋でも、トイレに入ると30分も出てこない。さすがにまずいと、運転手さんに迎えに来てもらいました。志村さんが車に乗り込む際、“一緒に来てほしい”と言われたものの、自宅には伺ったことがなかったので、躊躇してしまった。車が走り去ったあとやっぱり思い直して、運転手さんに電話すると、“僕とマネージャーが近くに住んでいるから大丈夫”と言われて……」

 結局、それが志村と交わした最後の言葉だった。その後、志村は17日に倦怠感を訴え、20日に入院。意識が戻らないまま29日に帰らぬ人となる。

「16日にCT検査をして、脳の異常はなかったそうなのですが、その4年前に肺炎を患って以降、身体が弱っていたそうで、特に最近は階段も支えてあげないと上がれないほどでした。最終的にはコロナに感染してお亡くなりになったわけですけど、亡くなった原因はそれだけではない気が今でもしています」

 所属していたイザワオフィスの担当者は、優里さんの存在についてコメントは差し控えるとした上で、

「死因はコロナだったことに間違いありません」

 と言うのみ。

 再び優里さんが語る。

「あの時、なぜ三鷹の自宅までついていかなかったのか、後悔しかありません。勤めていた仕事も志村さんの意向で辞め、私の将来を捧げようと準備をしていた、まさにその時の出来事だったんです。しかし、その後、ご親族や事務所の方からは何も連絡がなく、最後のお別れもできませんでした。寂しい限りです」

 突然の死から1年を経ても、残された者は戸惑いを払拭できずにいる。

 せめて、天からの「アイーン!」で、その様子ですら笑いに変えてくれないものか。

週刊新潮 2021年4月8日号掲載

ワイド特集「最後のとき」より

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