ママ選手の先駆け「小野清子さん」逝去 幼子を連れて練習へ…語っていた当時の苦労

スポーツ

2021年03月26日

  • ブックマーク

 1964年の東京五輪の体操銀メダリストで、元参議院議員の小野清子さんが亡くなった(享年85)。実は小野さんは、いまでこそ珍しくない「ママアスリート」の先駆け的存在だった。2020年の週刊新潮で、母と選手を両立させた苦労を回想している。(取材・構成=堀ノ内雅一)

(以下は「週刊新潮」2020年1月2・9日号、1月16日号掲載の内容です)

 ***

 東京オリンピックの開会式で、大勢の国内外の代表の人たちと一緒に選手宣誓を聞きながら、私は、自分が意外に落ち着いていることに気付きました。

 宣誓の声の主は、私の夫である小野喬でしたが、そのときは妻として心配するというより、ただ一選手として、大変だろうなぁ、日本人として誇らしいなぁと、ずいぶん客観的に聞いていたように覚えています。

 もちろん、わが家に置いてきた子供たちのことは、頭からすっかり消えたわけではありませんでした。しかし、体操と母親業の両立という難題も、ここに至るまでの長い選手生活の間に、母や周囲の人たちによるサポート体制が出来上がっていましたから、不安はありませんでした。

 それより、いったん母国でのオリンピックが始まったのだから、もう私個人のことで、主人にも体操の仲間にも迷惑をかけてはいけないのだと、改めて気を引き締めていました。

 その後、競技が始まってからも、選手村は男女別々でしたから、大会期間中は、主人とはほとんど会うことはありませんでした。男子村と女子村との間には、金網もありましたしね(笑)。

〈東京オリンピックの女子体操代表として、団体総合で銅メダルを獲得した小野清子さん(83)。夫は体操代表で、日本選手団主将でもあった小野喬さん(88)。「鬼に金棒、小野に鉄棒」で知られた喬さんは、見事、団体総合2連覇を果たしている。こうして二人は、夫婦でオリンピックに出場しただけでなく、「自国開催の五輪において夫婦でメダリスト」という、いまだ日本人選手の誰も成し得ない偉業を達成した。

 さらには、清子さんは28歳での出場時、3歳と1歳の子を持つ2児の母親だった。また、五輪後には、全部で5人の子供を育てながら民間のスポーツクラブを立ち上げ、やがては国政にも進出する。

 今でこそ、“ママアスリート”といった言葉が普通に聞かれるが、半世紀ほど前、女性のスポーツ選手にとって、選手生活と母親業の両立は、まさしく苦労の連続だった。〉

 秋田市の久保田中学(当時)2年生から体操を始め、秋田北高校1年でインターハイの個人優勝を果たしました。高2で山形国体にも出場しましたが、このとき初めて、将来結婚することになる小野喬と出会いました。

 4学年上の主人は、1952年のヘルシンキオリンピックから帰国してすぐに、模範演技をするために参加していました。私の高校は女子校(現在は共学)だったので、当時は、まず男性による指導自体が珍しかったことを覚えています。その後も手紙やハガキなどで、体操のアドバイスをしてくれました。

 同時に、主人は自分が進学した東京教育大学(現・筑波大学)に女子体操部を作るためのスカウティングもやっていて、私にも「受験してもらいたい」と問題集を送ってきたりしていました。

 私は宮城県で生まれましたが、生後3カ月で、外国航路の一等航海士だった父を結核で亡くしています。その後は、母や姉兄と共に、秋田市で耳鼻科医院をやっていた母方の伯父の家で世話になっていました。

 こうした家庭環境もあって、大学進学をして体操をやるなんて、わがままを言ってはいけないという思いも抱いていました。しかし、このときも、主人が、電話や手紙で母や伯父を説得してくれたんです。

 そんな経緯で大学でも体操をしていたものですから、人を押し退けてでも上に行くというような気持ちは、正直、ありませんでした。それが変わるきっかけが、56年のメルボルンオリンピックでした。

〈メルボルン五輪は、日本女子体操チームが初めて参加した大会だった。もちろん、喬さんもヘルシンキに続いて連続出場している。だが、残念ながら、大学3年生だった清子さんは、最終予選の平均台で落下し、個人総合9位でメンバーには選出されなかった。〉

 このとき、同級生も何人かが代表に選ばれていたんです。私としては、技術的には同じレベルのつもりでいましたから、他のメンバーが喜んでいるのを目の当たりにして、やっぱり、素直に悔しかった。

 それまでは、歯を食いしばって、がむしゃらに練習するのは美しくない。そんなことも頭にはありました。でも、それは違う。能力ある者は、チャンスを前にしたときには、きちんと努力して結果を出さなければならないのだと自己反省する、アスリートとしての転機となりました。

 もう一つ、大会後に「しょうがないや」と思って帰ろうとして、ふと視線を上げたら、夕日が差し込む観客席に母の姿が。母は「ご苦労さん、ゆっくりやすみなさい」とだけ声をかけ、去っていきました。苦言はなく、笑顔とねぎらいの言葉だけ。涙がポロポロこぼれ落ちて、今度はしっかり努力して、親孝行したいと思ったものです。

〈清子さんの大学卒業と同時に、22歳で結婚。60年には、ローマでのオリンピックに初出場し、“カップルで五輪へ”と注目された。結果は妻が団体で4位、夫は同じく団体で金メダルだった。

 翌年6月には長女が誕生して、これまた“おしどり夫婦選手にベビー”と話題に。驚くのは、そのわずか4カ月後の10月には秋田国体に出場していることだ。〉

 主人とは、常に体育館で一緒に過ごしていましたから、いわば社内結婚のような感じでしたね(笑)。すぐに子供ができたときには、「いつまでも逆立ちなんてしてられない」と、引退も考えていました。ただ、国体の開催地が私の地元である秋田でしたから、関係者からも、強く出場をお願いされたんです。

 出産後1カ月で体育館に行き逆上がりをしたら、妊娠して体重が10㌔増えていたし、腹筋も落ちてしまっていてできない。「やっぱり無理です」と言うと、今度は「それなら平均台だけでも」と。

 そんなとき、ローマ五輪の体操で団体、個人総合ともに優勝したソ連のトップ選手のラリサ・ラチニナ選手との会話を思い出しました。彼女は、その2年前に出産してママになっていた。世界選手権で会ったとき、私に笑顔で、人指し指と中指をトコトコ歩くように動かしながら「マンジャーレ、マンジャーレ」と言ったんですね。「食べて、寝て。人生、歩んでいけば、結婚して子供ができるのは当たり前のこと。なるようになるものよ」という意味だったようです。

 それを思い出して、同じ人間なんだから私も、と思いなおすことができたんです。

〈大卒初任給が1万円程度のときに、海外での世界選手権遠征で選手1人に30万円程度の個人負担があった。その際に地元秋田の人たちに支えられていた事情もあり、恩返ししたいとの思いも強かったそうだ。国体の結果は、堂々の総合2位。〉

 まあ、火事場の馬鹿力でしたね(笑)。続いて翌年のプラハでの世界選手権に出て、これで選手生活もひと区切りついたと、今度こそ家庭に入るつもりで、長男を産んだのが63年8月。そんなときでした、日本体操協会から、「東京オリンピックに出てもらわないと困る」と、連絡が入るんです。

次ページ:幼子と同伴練習

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]