東京電力と右翼の黒幕「田中清玄」 共産党の発電所破壊工作を阻止した男(徳本栄一郎)

国内 社会 2021年3月26日掲載

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 猪苗代第一発電所は福島県の会津若松、日橋川(にっぱしがわ)上流にある。猪苗代湖の湖水を使う水力発電所で、周辺は豪雪地帯として知られる。冬季は近づくだけでも容易ではない。

 大正初期に完成した施設は、今も首都圏に電気を送る、東京電力の大切な資産だ。赤煉瓦の外壁が美しい建物は、日本遺産に認定されている。

 終戦直後の1950年の夏、この発電所を巡って、会津若松市内は一触即発の緊迫した空気が流れていた。

 東京から続々と乗り込んだのは、目つきの鋭い復員兵や元特攻隊員、空手の達人の大学生である。中には、背中一面に刺青を彫ったヤクザもいて、まさに異様な風体の集団であった。

 何かを探るように城下を闊歩し、共産党のポスターがあると乱暴に引き剥がす。それにヒステリックに抗議する者がいれば、無言で胸ぐらを掴んで殴り倒した。あちこちで乱闘も見られ、一体、何が起きてるのかと、市民たちは囁き合った。

 その最中の8月上旬、会津若松駅に、この集団の親玉らしき男が降り立った。年の頃は40代半ば、痩せ型の刺すような目差しで、戦後の混乱が残る当時に珍しく、背広に蝶ネクタイである。プラットホームに降りると、すぐに数人の用心棒が傍についた。

 男の名前は田中清玄、東京で三幸建設という会社を経営する実業家だ。が、彼が会津入りしたのは、橋や道路の工事の指揮などではない。首都の電力供給基地である猪苗代の発電所、それを共産党の破壊工作から守るためだった。

 戦後史の裏で暗躍して、いずこかへ去り、東京電力の社史に決して載らない男たち、それが田中清玄率いる電源防衛隊であった。

 右翼の黒幕として知られた田中だが、その生涯は波乱万丈、また「山師」「政商」「石油利権屋」と常に禍々しいイメージがつきまとってきた。

 明治の後期、1906年に北海道の函館で生まれた田中は、旧制弘前高校を卒業して東京帝国大学に進学、そこで共産党に入党した。当時、共産主義運動は非合法で、書記長になった彼は武装方針を取り、官憲と銃撃戦を繰り返す。その結果、治安維持法違反で逮捕され、11年を獄中で過ごすが、その間に母親が息子を改心させようと自殺、転向を決意した。

 戦後は刑務所時代の仲間らと会社を興し、建設業に乗り出す。また海外の石油権益獲得などを手掛け、中国のトウ小平やアラブ首長国連邦のザーイド大統領、インドネシアのスハルト大統領、はては山口組3代目の田岡一雄組長と絢爛たる人脈を築く。1993年に亡くなるまで「東京タイガー」と呼ばれた国際的フィクサーだった。

 そして、この東京タイガーと長年、水面下で連携したのが東京電力である。右翼の黒幕と電力会社、両者が一体、どうやって邂逅し、生涯を通じた関係を持ったか、答えは終戦直後の混乱にあった。

「共産党討伐」

 敗戦で、わが国は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれたが、国内はまさに騒然としていた。それまでの秩序が崩壊し、人々は虚脱状態で、その精神的空白に入り込んだのが共産主義である。そして、GHQにより合法化された共産党は次第に過激化していく。

 一部は公然と武力革命を唱え、標的になったのが日本発送電、いわゆる日発(にっぱつ)だった。戦前に発足した国策会社で、全国の発電と送電を担い、後に分割、関東配電と合併して東京電力となる。その労働組合が、共産党に牛耳られていたのだ。関東配電の労務部長で、後に東京電力社長になる木川田一隆の体験は切実だ。

「戦時中、職場を死守し、会社のためには命をささげると誓ったひとびとが、こんどは赤旗をふりまわし、社長や役員をへいげいして、自己批判させるようなことになってしまった」(「私の履歴書」)

「かつては日本の電力の宗家ともいうべき場所が、完全に赤旗に包まれ、怒号はくり返された。わたくしは昼夜の別なく、激情にわく多数の組合員に包囲されながら、はげしい折衝をつづけねばならなかった」(前掲書)

「バカと呼ばれ、つらを洗って来い!とどなられるのは日常のこと。その(ばせい)の中には、いつも女闘士のカン高い声がまじっていた。わたくしの会社のある支店長のごときは、非民主的と呼ばれて、組合幹部の前に土下座してあやまらされるといった暴挙が随所に行われた」(前掲書)

 まさに民主主義のはき違え、集団ヒステリーだが、こうした事例は、大なり小なり政界や官界、言論界でも見られた。いわば国中が左翼思想にかぶれる中、いち早く共産党の危険性を指摘し、猪苗代が標的と警告したのが田中清玄だった。当時のインタビューに、本人の肉声が残っている。

「日発は共産党の牙城であり、われわれは昨年の夏から準備して、この三月から対共産党直接壊滅攻勢の火蓋を切ったものです。われわれとしては命をかけて電源防衛の配置についてきた」(「産業と貿易」50年11月号)

「もはや共産党自体は日本の労働者階級の前衛党ではなくて、ソ連赤軍の第五列に変質して来ています。今日の共産党はソ連の赤軍を日本に導入し、彼らの軍政権を樹立させるための第五列部隊だという点が本質でしょう」(前掲書)

 また猪苗代周辺の村議会も共産党が押え、ちょっと反共的な発言をすれば、つるし上げられ、脅迫され、行方不明になった者さえいるという。

「こんな暴力沙汰はザラですよ。そこは赤色暴力地帯だ。これが一体、民主々義ですか…。笑わせますョ…。労働省や通産省の役人でわれわれの電源防衛運動に反対するって云うなら、自分で発電所を回ってから文句を云えッてもんですよ」(前掲書)

 こうして無力な電力会社に代わり、共産党討伐の実力部隊を送ったのが田中である。だが、その実態は長らく謎で、東京電力の社史はむろん、木川田社長の回顧録にも記述がない。それを証言してくれたのが、三幸建設の元社員、太田義人だった。

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