「生きて帰れないかもしれない」 海上自衛隊指揮官たちが明かした「東日本大震災」救援活動の裏側

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5年後にようやく実現した「洋上慰霊」

「自衛官としての覚悟」、東日本大震災後の救援活動は、それが試された場であったと当時の海上自衛隊指揮官らは言う。国民には見えなかった、捜索救難の舞台裏。震災の5年後、当時の指揮官たちが集まった座談会で語られた、自衛官一人ひとりの壮絶な「闘い」とは――。

倉本憲一 自衛艦隊司令官(海将)
松下泰士 護衛艦隊司令官(海将)
福本出 掃海隊群司令(海将補)
井ノ久保雄三 横須賀警備隊司令(1佐)

構成・笹幸恵(ささゆきえ/ジャーナリスト)

(「新潮45」2016年5月号より再録、肩書は当時)

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松下泰士 海上自衛隊ではさまざまな機会に洋上慰霊を行っていますが、東日本大震災の慰霊は5年目にして初めてでしたね。掃海母艦「ぶんご」で執り行われたのですが、式典に献茶があったのも初めてではないでしょうか。武者小路千家の千宗守家元が艦上でお茶をたてて、横須賀地方総監と在日米海軍司令官が共に海に向かって献茶しました。お茶がこぼれないように操艦するのも大変だったでしょうし、横須賀音楽隊の献茶に合わせた演奏など、経験がないにもかかわらず非常にスムーズに行われたと思います。

井ノ久保雄三 武者小路千家のゲストで、着物姿の女性が多いのがとても印象的でしたね。

倉本憲一 彼女たちのほとんどは地元の人で、やはり被災された方のようです。私は久しぶりに「ぶんご」に乗って、当時のことを思い出しました。今では何の痕跡もないからわからないと思いますが、震災が発生してから2週間後に視察に訪れたときは、「ぶんご」の中部甲板に遺体を並べるためのシートが敷いてあって、祭壇が設えられていました。

福本出 ええ、線香を絶やさないようにして。掃海部隊は三陸の沿岸部で行方不明者の捜索を行っていたのですが、海上自衛隊全体で収容した425名のうち、174名が掃海部隊によるものです。遺体をヘリコプターで移送するときは乗員が上甲板に整列し、敬礼して見送りました。海上幕僚長・武居智久海将も、今回のように洋上慰霊をするなら「ぶんご」しかないだろうと言ってくれました。

倉本 もともと震災から3年が経ったとき、私が当時の指揮官クラスに声を掛けて食事会をしていたのです。慰労の意味も込めて。1年目、2年目はなかなかできませんでした。気持ちもまだ落ち着きませんし。3年目から、こうして都合のつく人に集まってもらっています。当時、思い込みで叱ってしまったり、齟齬が生じたりしたのを、「あのときは申し訳なかった」と謝る会でもあります(笑)。

福本 倉本さんが言われたように、最初の数年は気持ちが落ち着かなかった。海上自衛隊も5年経ってようやく、一つの節目として洋上慰霊をやろうという話になったのではないでしょうか。

震災当日、海上自衛隊はどう動いたか?

倉本 あの日の14時46分、私は自衛艦隊司令部(横須賀市船越町)の執務室にいました。机の脇の本棚が耐震になっていなかったので心配したのでしょう、副官が飛び込んできた。揺れが収まらない。可動する艦艇すべてに出港命令を出しました。そのまま三陸沖へ向かわせたのですが、あとで「しまった」と思いました。任務を交代する艦がなくなってしまったんです。

松下 護衛艦隊司令部(同)の建物は築70年を超えていて、耐震構造になっていないと聞いていました。とりあえず幕僚たちに外に出るよう指示し、そのあとテレビが津波の来襲を伝えていましたので、すぐに出港命令を出したんです。横須賀から現場に向かう艦艇は、緊急船舶灯を点灯して、浦賀水道航路を高速で駆け抜けていきました。ところが、後から海上幕僚監部の装備部長をしていた同期に怒られたんです。「みんな出しちゃったら、救援物資を積む艦がないじゃないか」って。だからあとで一部の艦を戻しました。地震の直後、ちょうど佐世保から来た護衛艦「ちょうかい」の艦長が、訓練終了の報告をしようと私の執務室に向かっていたんです。激しい揺れでしたから、「報告はいいから出港しなさい」と言って、三陸沖に向かわせた。2日後、福島県双葉町の沖合で、自宅の屋根に上って漂流している男性を救助した艦が「ちょうかい」でした。

井ノ久保 私は警備隊庁舎(横須賀市長浦町)の司令室にいました。護衛艦隊司令部と同じく築70年という古い3階建ての庁舎ですから、ミシミシと音がして、ひとまず皆に「机の下に隠れろ」と指示を出しました。うちの警備隊は特務艇「はしだて」を持っているんです。国内外の要人を招いて式典などを行う通称「迎賓艇」なのですが、これを緊急出港させた。横須賀にも津波が来て、2メートルくらい潮位が変化したんですよ。そのため油船(あぶらぶね)が1隻、着底しました。幸い損傷がなかったので胸をなでおろしましたが。

福本 私も掃海隊群司令部(横須賀市船越町)の執務室にいて、緊急出港の命令を出した。旗艦「うらが」はドックで修理中、横須賀在籍の掃海隊群隷下で動けるのは、第51掃海隊所属の掃海艦艇3隻のうち、「やえやま」だけでした。残り1隻はドック入り、もう1隻は「ぶんご」と共に、シンガポールでの国際訓練に参加するため沖縄の勝連で出国手続き中でしたから。大津波警報が出るに至り、これはすぐにEOD(Explosive Ordnance Disposal diver=水中処分員)が必要になると思った。海に潜って機雷の識別や処分を行う特殊技能を持った隊員たちです。奥尻島沖地震(平成5年、マグニチュード7・8)では、やはり津波で多くの人が流され、EODが行方不明者の多くを海中から発見しています。そこで「やえやま」にEODを乗せ、出港させた。

倉本 ところが現場に行ってみたら、潜れるような状態ではなかったのです。横須賀の司令部では、掃海部隊はなぜ潜らないのかと不思議に思っていました。

スクリューに漁具が絡み身動きが取れず

福本 水中が濁っていて、障害物もありすぎたんです。また掃海艇は護衛艦と違って足が遅いですから、各地から掃海艦艇が集まってオペレーションを開始したときは、すでに発災から72時間が過ぎていました。行方不明になった方々の捜索はもちろん大事だけれど、まず今生きている人を助けなければなりません。掃海部隊の小さなボートでないと、沿岸部の孤立した集落に救援物資を運ぶことができませんでしたから。

松下 じつは海上自衛隊の艦艇も海上保安庁の船も、スクリューに漁具のロープなどが絡まって身動きが取れずにいた。スクリューが動かなければ救助にも行けません。絡まった障害物を潜って取ることができるのはEODだけ。あのときは護衛艦隊も助かりました。

倉本 やっぱり現場を見ないとわからないことがありますね。それまで横須賀の自衛艦隊司令部にいた私が、三陸の沿岸部に展開している掃海隊群の旗艦「ぶんご」や、その沖合で活動している第1、第2、第3護衛隊群の旗艦を訪れたのは、震災発生から2週間後のことでした。現場の凄まじさにあらためて驚かされました。もちろん報告はちゃんと上がってくるのですが、その場の雰囲気だとか匂いだとか、行ってみないと感じ取ることができません。

松下 最初、私だけが護衛隊群司令の様子を見に行く予定だったんですよ。「司令官、行ってまいります」と倉本さんに報告したら、「俺も行く」となって。

福本 オペレーション中に偉い人が来るわけですから、受け入れるこちら側は大変です。パッと来て「がんばれよ」とだけ言って帰ってもらっても困る。隊員の士気にかかわります。そこで倉本さんに「御礼はしかるべく具体的であるべし、という言葉があります」とお伝えしました。そうしたら山のようにお菓子を持ってきてくれて。

倉本 そう、お菓子とタバコを段ボール箱でね。

護衛艦乗員の家族にも被災者が

倉本 この視察のときも「しまった」と思うことがありました。ある護衛艦に乗ったとき、家族が被災したという乗員を10名くらい、艦長から紹介されたのです。緊急出港させたものの、乗員の家族に被災者がいることにまで頭が回らなかった。「交代が来るまで頑張ってくれ」と声を掛けましたが、その交代がいない。申し訳ない気持ちでいっぱいでした。同様の事情を抱えた隊員は、他の艦艇にもいたはずですよ。帰してやりたいけど、帰せない。でもどの隊員も、誰も文句を言いませんでした。

同時に行っていた「難題」対策

福本 災害派遣の対処計画では基本的に、担当警備地域の総監が部隊指揮官です。岩手以南の東北は横須賀の管轄。したがって横須賀地方総監である高嶋博視海将(当時)が海災部隊指揮官になりました。ところが総監部の人員や装備、通信能力ではとても対応できない。そこで倉本さんがいる自衛艦隊司令部で高嶋さんが指揮を執ったのでしたね。そうでもしないと、あれだけ大規模なオペレーションはできなかった。

倉本 私の司令部幕僚のほとんどすべてを高嶋総監に差し出したんですよ。でも指揮官が2人いてはいけませんから、私は表に出ないようにしていました。私も松下くんも司令官ですから、そもそも高嶋総監の指揮下には入れないことになっている。とはいえ、その部隊はもともと自分の部下たちですから、視察に行ったときなどは隊員たちに声を掛けて回りました。現場は現場でいろいろと思うところがありますよね。福本さんのほかに現場で指揮を執っていたのは、護衛隊群の群司令たちです。彼らと二人きりで話せる場所はトイレくらいですから、トイレに呼び出して「お前、本当は言いたいことあるんだろ」って、ガス抜きするのが私の役目。

松下 そうそう。船頭が多くて船が山に登っちゃったら困りますから。裏方としては、春の人事異動の話を粛々と進めていました。また、ソマリア沖の海賊対処も続いていましたし、中国がこの期に及んで何かしてくるかもしれなかった。だから佐世保にいる第13護衛隊は被災地に送っていない。何かあったときのために残しました。彼らだって本当は、被災地に行って役に立ちたいという思いはあったはずなんです。でも誰かが裏で通常の任務を支えなくてはいけません。

福本 倉本さんや松下さんは部隊を派出する側でしたが、掃海隊群というのはその逆なんです。派出された部隊を使う側。それぞれの地方総監部の隷下にある掃海隊を集めて、普段は機雷戦訓練などを行っている。だから被災地に行ったときも、それぞれの艇の練度や艇長の性格なども掌握できていたんですね。あのときは瓦礫で埋もれている中での航行で、海図にない海底の変化などもあった。そのために猪突猛進タイプの艇長が指揮する掃海艇が、舵を1枚もぎ取られてしまったんです。うちは水中にあるものを見つけるのは得意なので、マーキングだけして災害派遣終了後に回収しましたが。掃海艇の舵は「シリング舵」といって、護衛艦とは異なる特殊な形状をしているんです。教材として使えるということで、江田島(広島県)の第1術科学校に展示してありますよ。無謀なことをするとこうなる、という教訓も込めて。

「オペレーション・アクア」

倉本 私が忘れられないのは、海外出張中の米第7艦隊司令官から電話がかかってきたことです。「原発はメルトダウンしている」との内容でした。でもその頃テレビでは、原発は安全だと流していた。だけど第7艦隊司令官は、もともと原子力潜水艦乗りです。冷却水が止まったら何時間後にメルトダウンするかがわかっていた。それを私に伝えてくれたのです。とはいえ、こちらは救助活動があるから艦艇を現場海域から離すわけにはいかない。司令官はガイガーカウンターの使い方を丁寧に教えてくれました。

松下 3月17日には、陸上自衛隊がヘリで福島第一原発に散水しましたよね。あれでアメリカも動き出して、米海軍が所有するバージ(1500トンの水タンク搭載の艀(はしけ))を海上自衛隊に提供するという話になりました。冷却水としてバージを原発まで運ぶという給水支援作戦です。その現場指揮官に任命されたのが井ノ久保さんですよ。

井ノ久保 私はそれまで、液状化現象で断水した千葉方面の給水支援を実施したり、被災地への入浴支援の指揮を執っていたりしていました。ところが24日に、急に高嶋総監に呼ばれまして、「福島第一原発への給水支援作戦は可能か」と聞かれたんですね。

倉本 我々はこの作戦を「オペレーション・アクア」と呼んでいました。東電から話があったときは、冷却水が途絶えたら大変なことになる、一刻を争うと聞かされた。そこで米海軍のバージ2隻を、多用途支援艦と曳船を使って福島第一原発の港内(物揚場)に回航させることになったのです。あのとき女性隊員を降ろしたでしょう。本人たちにかなり文句を言われましたよね。

井ノ久保 被曝する隊員を最低限にするために、曳船の定員7名を4名にしろと高嶋総監から言われていたんです。女性だけではなくて、若い隊員も降ろしました。人選を船長に任せたんですが、結局、年寄りばかりが行くことになったんですよ。「なぜ連れていってくれないのか」と涙ながらに訴える隊員もいたと聞きましたが、将来があるのだからと諦めてもらいました。

松下 現場では何があるかわからない。原発の内部もどうなっているかわからない状況でしたから、経験豊富な1佐が全般指揮を執るべきだというので井ノ久保さんが指名された。

井ノ久保 最終的には、「誰かがやらなきゃいけない」という気持ちだけですよね。あのときは救援活動に携わる者が皆、そういう気持ちでいたと思うんです。私もまたその一人に過ぎません。出港前、女房に「福島第一原発に行くことになった」と言ったんですよ。そしたらたったひと言、「お国のためにがんばっていらっしゃい」って。

全員 奥さん、えらい!!(拍手)。

「戻ってこられないかもな」

井ノ久保 26日早朝、私たちは港務隊の曳船3隻でひっそり出港するもんだと思っていたんです。ところが高嶋総監が直接見送りに来て、激励の言葉をかけてくれました。それに、出港したら横須賀の湾内に停泊している護衛艦の乗員たちが、上甲板に上がって皆で「帽振れ」をやってくれた。誰にも知られずに行くと思っていましたから、これには胸が熱くなりましたね。同時に、このとき初めて「戻ってこられないかもな」と、任務の重さを実感した。

倉本 一晩で窓に鉄板を貼ったりして、少しでも放射線を防ごうと皆が必死でしたよね。それにバージを運ぶだけでも大変でした。荒天で波やうねりが高く、多用途支援艦「ひうち」「あまくさ」では、バージを曳く曳索が1本切れてしまった。残りの1本だけで、どうにか小名浜(いわき市)まで辿り着いたんです。

井ノ久保 波が5メートルくらいありましたからね。残った1本が切れたら、もうどうしようもない。それほどに揺れている洋上ではバージに飛び移ることもできなかった。もし曳索が2本とも切れていたら、「オペレーション・アクア」は失敗でした。祈るような気持ちでしたね。

松下 小名浜で一旦集結して、造船補給所の移動工作班が放射線を防ぐためにタングステンを貼って、艦橋まわりを補強してくれましたよね。あとはポンプ。

井ノ久保 そうですね。原発に給水するためのポンプが、なかなか見つかりませんでした。一刻を争うというのに、東電側では切迫した様子がなかった。「近くのダムから給水しているから、バージの水はあくまでバックアップに過ぎない」と言っていて、認識が甘いと思わざるを得ませんでした。ただポンプを探したり、バージにポンプの設置工事をしたりしている時間に、放射線に対する基礎知識や防護服の着用要領などを学ぶことができたので、その点では待っている間も有意義でした。これには陸上自衛隊CRF(中央即応集団)の中央特殊武器防護隊が協力してくれました。

倉本 実際に給水作戦が行われたのは3月末から4月のはじめです。私も放射線の知識がないから、原子力の専門家である同級生を頼って、いろいろと教えてもらいました。原発周辺はおおよそ4ミリシーベルト。長い時間滞在するのでなければ大丈夫と聞き、現場に行かせる決心がつきました。

井ノ久保 福島第一原発の港内に入ったのは、事前調査を含めて5回。バージを接岸する物揚場の放射線量は、毎時3ミリシーベルトでした。バージを曳いた曳船を横付けしたとき、現場にいた東電の職員は高い放射線下にもかかわらず、迅速な係留作業をしてくれました。小名浜での打ち合わせと立付け(リハーサル)の賜物です。その翌日、福島第一原発が冷却水としてバージの水を使ったとの報告が入ってきた。今度は空になったバージを、沖合20キロで待機している補給艦「おうみ」まで回航して水を補給、再び原発まで向かいました。その後は小名浜で待機。

松下 隊員の編成を少しずつ変えて、できるだけ被曝量を減らそうとしていたんですよね。

井ノ久保 ただ写真員だけは毎回のように原発に行っていました。任務だから仕方ないけど、彼らはよく頑張りました。

助かる命が助からない

倉本 東日本大震災の災害派遣で、自衛隊のイメージは大きく変わりました。それほど隊員たちが頑張った。でも他方で、うまくいったからといって問題点が全くなかったわけではない。

松下 そう。現場の判断で対処して何とかうまくいったけど、それは結果論に過ぎない。たとえば震災直後、「ロナルド・レーガン」が支援物資を送ろうとしたら、政治家か誰だか忘れてしまいましたが、「待った」をかけたという出来事があった。「通関していない」というのがその理由。角を矯めて牛を殺すとはこのことです。だから「ロナルド・レーガン」から護衛艦「ひゅうが」に物資を一旦運んで、そこから配った。結局、税関を通していません。

福本 ガソリンも消防法関連法令で取り扱いが決まっていて、免許を持った人しか配ってはいけないことになっています。

倉本 外国の医者が国内で日本人を診察することもできません。医療法で禁止されている。あのときも真っ先に韓国から医療団が来てくれたんですが、勝手に診察してはいけないので、現場が混乱していたことを覚えています。

井ノ久保 現在の法律でガチガチに縛っていたら、助かる命も助かりませんね。

倉本 そうなんですよ。だからきちんと反省会をして、改善すべき点を洗い出さないといけない。

福本 いまの憲法改正論議の中で、どこを最優先に改正するのかという話がありますが、ある識者は災害時における緊急事態法が現憲法にないことを問題視しています。国家の緊急事態のときに、超法規的な行動を認めるという内容が、どこにも書いていないんです。このままでは、何かあるたびに自衛官は法律違反を犯さなくてはなりません。

倉本 日本全体という大きな枠で考えてみると、さらに課題が山積しています。たとえば善意の支援物資。私はこれを「第二の津波」と呼んでいます。自治体が崩壊しているのに物資だけは全国から集まりますから、さばけない。食糧や水は別ですが、日用品はニーズが日々変わっていくわけです。第二の津波が来ると、倉庫がパンクしてしまって、必要なときに必要なものが出てこない。

水陸両用戦の訓練と同じ要領で

松下 リストアップする人が必要になってくるんですよね。すると整理が終わるまで物が出せなくなる。私の部下は、そんなときに倉庫に行って、「おじさん、これもらっていくよ!」と勝手に日用品などを持ち出してきちゃった。こちらは待っていられないですからね。リストアップしていたおじさんも、どうしようもないから、「はーい」と言っただけ。

福本 掃海隊群司令部では担当区域の津々浦々のデータベースを作りました。あの集落にはどのくらいの人がいて、どんな人員構成なのか、何を必要としているのかといったデータです。それを順次更新していく方法を取りました。

松下 それを一番よくやっていたのが米空母でした。町の名前など彼らはよくわかりませんから、「α1」とか「β2」などといった具合にマークをつけて、ここには何人いるとかデータを集めるんですね。本来なら攻撃目標を定めるときの要領ですが、ミサイルを撃ち込む代わりに支援物資を送る。水陸両用戦の訓練と同じです。違うのは、攻撃目標である被災地から弾が飛んで来ないことぐらい。

倉本 ただ最初の数週間は皆が緊張感を持って対処するけど、それが過ぎると少し落ち着いてきて遊兵が出てくる。そうすると士気も下がって、良くないことが起きてくる。部隊を出すときには、引き上げるときのことも考えておかないといけないのですが、政府の体制維持の方針や被災地の方々の要望もあるから実際は難しい。

井ノ久保 その点、陸上自衛隊は上手だと思いましたよ。横須賀警備隊は入浴支援を丸2カ月、ずっと行っていたんですが、だんだんニーズがなくなってきた。東北方面総監に調整してもらって、現地の人々も納得の上で撤収したんです。陸上自衛隊は地元の人と密着しているから、スムーズにできるんでしょうね。

「人は等しからざるを憂う」

松下 入浴支援といえば、被災地の人に次のように言われました。「すべての集落に伝達が終わるまで、入浴支援を開始しないでください」って。陸上自衛隊もそういう発想ですよね。これまでの災害派遣の経験からなんでしょうけど。入浴にしても救援物資にしても、「どうしてあの村を先にしたんだ」と文句を言われてしまう。これを恐れるわけです。すべての集落に知らせるまで待っていたら、それだけで3日かかります。物資を順次配っていったら、3日後には終わるのに。人は貧しきを憂えず、等しからざるを憂う、というわけです。でももうそんな発想はやめようよ、と各地の防災訓練のときなどに徹底してもらいたい。

福本 実際に私たちもそれを経験しましたよ。東北沿岸部のリアス式海岸の地域には、10戸とか20戸とか小規模の集落が点在しているんですね。ある集落に30戸分の物資を持っていって、「隣の集落にも分けてもらえますか」とお願いしたら、「うちからは渡せない」と。少し先に見えている集落なのに、自衛隊が直接持っていけとなるんです。

松下 東北の人たちは忍耐強くて、それが一つの美徳にもなっているんですが、一方で頑なな面があるんですよね。昔から隣村との確執がある地域などでは、隣村のことを聞いても「知らねえ」ってそっぽを向かれちゃう。

福本 あと流言飛語もありました。よく知られているのは、関東大震災のときの朝鮮人が暴動を起こしているという流言ですよね。同じように、被災地では「中国人の集団が空き巣狙いをやっている」という噂が広まっていたんです。そんなとき、海からEODが上陸するでしょう。ダイビングスーツ姿で全身黒ずくめ、いかにも怪しい(笑)。木刀で待ち構えていて、殴られそうになりました。「日本人です、海上自衛隊です」って懸命に伝えて。ボートに乗ったときなどに羽織る合羽にも、何も目印がないんですよね。だからそれ以降は、ちゃんと海上自衛隊というネームが入ったジャンパーを着ましょうということになりました。情報不足の中では、人は疑心暗鬼になって、それがいとも簡単に増幅されてしまう。

井ノ久保 EODたちは本当に命がけでしたよね。

松下 しかしそれが、あまり世に知られていないというのが悲しいね。

倉本 そういえばオペレーション中、ある先輩から電話がかかってきました。「陸上自衛隊はあんなに頑張っているのに、海上自衛隊は何をやっているんだ」と。テレビに映らないから、一般の国民に海上自衛隊の活動が伝わらないんですね。

松下 もともと海上自衛隊には「名乗るほどの者ではございません」というメンタリティがあるんですよ。だからあまり知られていない。災害派遣のときも、悲惨な状況の中で自分たちのPRになってしまってはいけないと、つい抑え気味になってしまう。でも、震災発生直後は海上自衛隊しか見ていない被災地があったわけで、そこでの状況を国民に伝える義務があったのではないか、すなわち報道という観点が必要ではなかったかと、あとで思いました。

倉本 当時はそこまで頭が回らなかった。カメラを持つ手があるなら、その手で物資を運べという感覚でしたから。

試された自衛官としての覚悟

福本 テレビ局のクルーが最初から同行したのは、長面浦(石巻市)で行方不明者の集中捜索をしたときくらいでしたね。4月の初めだったと思います。

倉本 そのぐらいですよね。3月中は記録として残すという発想すらなかった。

福本 世の中に伝えるだけでなく、海上自衛隊の中でもきちんと記録に残し、後世に継承していかなくてはいけないですよね。最初の話にありました「ぶんご」に安置した遺体もそうです。最初は誰も遺体にレンズを向けるようなことはしませんでした。でもあるとき、これではいけないと思って記録に残すよう指示したんです。海上自衛隊として、これだけ多くの水死体に接することは今までなかった。水死体とはどういうものなのか、時間が経つとどう変化するのか。死者への冒涜ではないかという批判は承知の上ですが、それでも自衛官である以上、目をそらしてはいけない、知っておかなくてはいけないとの考えからでした。もちろん画像データが流出しないよう厳密に管理した上でのことです。

松下 被災地から帰ってきた指揮官たちは、自分たちの苦労は何ひとつ口にしない。福本さん然り、思うところはいろいろあったはずなのに。その代わり、どれほど地元の人々が頑張っていたかを話すんです。これが日本人だよなあって思いますね。

井ノ久保 横須賀警備隊のEODたちも全員、掃海隊群に集められましたよね。私も後から聞いたんですが、その中の一人は自分の実家が被災して、その近くで救難活動に当たったそうなんです。家族の携帯電話はつながらず、家が流されていたのもわかっていた。それでも黙々と自分の与えられた場所で活動していたんです。実家はすぐそこなのに様子も見に行かないで。私はそれを聞いて涙が出ましたね。

倉本 海上自衛官って、何かあったときに船に乗って出て行って、任務を果たすという訓練を日頃からやっているでしょう。だからいざというとき、我が身を顧みずという気持ちが自然に出てくる。

福本 そういう意味で、私はあの震災のオペレーションというのは、自衛官としての覚悟を試された時間だったのではないかと思っているんです。自衛隊が活躍するのは、この国が大変な事態に陥っているときです。そんなとき、自分の家族は後回しにして与えられた任務を果たす。日頃の訓練と、その訓練で培われた覚悟が試された。また我々としては、日々の訓練が間違っていなかったと確認できた時間でもありました。だからもし、後輩たちに声を掛けるとするならば、「自信を持ちなさい」のひと言です。今あなたたちがやっている日々の訓練は正しい。先輩たちがやってきたように粛々と訓練をしていれば、いざというとき必ず十全のはたらきができる。そう言ってやりたいですね。

倉本憲一(くらもとけんいち)
自衛艦隊司令官(海将)
1952年、奈良県出身。75年防衛大学校卒(19期)。主として航空畑を歩む。第8航空隊司令、大湊地方総監部幕僚長、第2航空群司令、海幕防衛部長、幹部学校長、教育航空集団司令官、航空集団司令官などを経て2010年7月に自衛艦隊司令官。2011年8月退官。

松下泰士(まつしたやすし)
護衛艦隊司令官(海将)
1955年、鹿児島県出身。78年防衛大学校卒(22期)。主として護衛艦部隊で勤務。海幕補任課長、第2護衛隊群司令、練習艦隊司令官、自衛艦隊司令部幕僚長などを経て2010年7月に護衛艦隊司令官。2012年7月、自衛艦隊司令官。2014年3月退官。

福本出(ふくもといづる)
掃海隊群司令(海将補)
1957年、和歌山県出身。79年防衛大学校卒(23期)。主として掃海畑を歩む。在トルコ参事官兼防衛駐在官、掃海隊群司令部幕僚長、呉地方総監部幕僚長などを経て2010年12月に掃海隊群司令。2012年3月、海上自衛隊幹部学校長(海将)。2014年8月退官。

井ノ久保雄三(いのくぼゆうぞう)
横須賀警備隊司令(1佐)
1956年、宮崎県出身。79年防衛大学校卒(23期)。主として護衛艦畑を歩む。第5護衛隊司令、佐世保地方総監部管理部長、統合幕僚監部指揮通信システム運用課長などを経て2010年4月に横須賀警備隊司令。2011年8月、海上訓練指導隊群司令。2012年8月退官(海将補)。

※肩書は当時

2021年3月11日掲載

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