大川小児童の遺族が今も「語り部」を続ける理由 #これから私は

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子どもたちの身体を傷つけないように手で瓦礫を撤去

 津波に呑まれ、全校児童108人のうち74人が犠牲になった宮城県石巻市立大川小学校。若い命を一瞬にして奪われた遺族らの傷は、今なお癒えることはない。そんな中、現場では5年前から、大惨事を語り継ぐ取り組みが始まっている。

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 被災した校舎は2016年3月、「震災遺構」として保存が決定。公園として整備中で、犠牲者の慰霊碑が建てられている。5月には、展示スペースとして「伝承館」が新たに完成する予定である。

 当時小6だった娘の真衣さんを亡くし、現在「大川伝承の会」で語り部として活動する鈴木典行さん(56)が言う。

「あの日からずっと、ここへ通って掃除をしながら遺品を整理してきました。そんな中で声を掛けられたりし、学校のことをお話しするようになったのが活動の始まりです。コロナ禍の前は1日に200人もの方が見学に来られた日もありました。19年だけでも私たち語り部がご案内したのは1万5千人ほど、見学された方は20万~30万人になるのではないでしょうか」

 10年前、変わり果てた娘の真衣さんと対面したのは、地震発生の2日後だった。

「3月13日、捜索のため入った構内では、前日に見つかった遺体がブルーシートに包まれて寝かされていました。その横で私たちは、子どもたちの体を傷つけないよう、スコップを使わずに手で瓦礫を撤去していったのです」

 その日の捜索は15時までとなっていたのだが、

「私には“ここに真衣が眠っている”という確信がありました。だから周りから“今日はもう撤収しよう”と言われても掘り続けたのです。すると1分ほどで、児童の足が出てきた。上履きには『真衣』とはっきり書かれていました」――。

大川小の見学で学んでほしいこととは

 14年3月、犠牲となった児童23人の遺族が市と県を相手取り、合わせて約23億円の損害賠償請求訴訟を起こした。教職員らが津波の危険性を認識できたのに適切に誘導しなかった、と訴えたのだ。被告側は“事前の予見は不可能”だと主張したものの、19年10月には約14億4千万円の賠償を命じた高裁判決が確定。同じ小6だった娘のみずほさんを亡くし、語り部をつとめる佐藤敏郎さん(57)は、

「私は当時、石巻市に隣接する女川町の中学教員でした。町内の道はぐちゃぐちゃで、発生から2日間は大川の自宅に帰れませんでしたが、13日午後に妻と息子がやって来て“みずほの遺体があがった”と聞かされ、14日に対面したのです」

 みずほさんは卒業間近、4月からの中学校生活について父娘の会話が弾んでいた頃だった。それでも、19年の判決については、

「私は教員として、むしろ“教職員の誇り”に向き合ってくれたと思っています。学校は通りすがりの場ではなく、教員はたまたまそこにいた大人ではない。子どもの命を守るのは教員だということをあらためて認めてくれた判決でした」

 とはいえ、

「それは当時の先生方を責めるものであってはなりません。津波が来たかどうかが命を左右するのではなく、逃げるか逃げないかが大事なのです。大川小を見学することで“いつどこで起きてもおかしくない。その時にどう動くか”を考える機会になればと思っています」

 震災は、いまも各地でたしかに続いているのだ。

週刊新潮 2021年3月18日号掲載

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