「釜本邦茂」が今のサッカー界に思うこと 「個人の能力ばかりを評価している」(小林信也)

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 1968年メキシコ五輪、サッカー日本代表は3位決定戦で地元メキシコを破り、銅メダルを獲った。立役者は大会を通じ7点を挙げ得点王に輝いた釜本邦茂。

「私がやることは単純でした。ゴールを決めること。代表の合宿に行っても、シュートの練習ばっかり。あとは杉山さんとのコンビネーション。最初はうまいこと合わなかったんだ。お互いの癖が全然わからなくて」

 釜本が振り返る。殊勲者はもちろん釜本のほかにもいた。前線にロングフィードを送った小城得達(ありたつ)。そして「黄金の左足」杉山隆一。小城、杉山、釜本のホットラインが得点源だった。

 銅メダル獲得は日本の子どもたちの遊びを変えた。少年たちが大きなボールを蹴り始めた。野球少年だった小学校6年の私も休み時間にはグラウンドに飛び出し、サッカーに興じた。真似をするのは杉山であり、GK横山謙三だった。釜本の真似はできなかった……。

「オリンピックの前、杉山さんは調子が悪かった。結婚して太ったせいかね」

 メキシコ五輪に向けたヨーロッパ遠征で、日本代表は11連敗も記録した。

「杉山さんのせいだって、非難ゴウゴウだった。それでも長沼監督と岡野コーチは使い続けた。10月には必ず合わせてくるって」

 首脳陣の期待どおり、杉山は復調した。

「不思議でしょうがないんだけど、メキシコ五輪が始まったら、杉山さんとの呼吸が合うようになった」

 メキシコ五輪で釜本が決めた7点のうち、4点は杉山のアシストから生まれたゴールだった。その背景には杉山の復調があり、釜本の成長があった……。

ペレの真似はできないが

 メキシコ五輪イヤーの1月、釜本は「日本サッカーの父」デットマール・クラマーの勧めで西ドイツの1.FCザールブリュッケンに短期留学した。約3カ月、後に西ドイツ監督になるユップ・デアヴァルの薫陶を受けた。その留学が釜本のサッカー人生を大きく開花させたと言われる。訊ねると釜本はあっさり言った。

「その時期のザールブリュッケンは寒くてね、ほとんど外で練習できなかった。せいぜい室内サッカー。3カ月、ヨーロッパの空気を吸いに行っただけだった」

 収穫はなかったのか?

「部屋にテレビもないから図書館に通ったんだ。そこにサッカーの16ミリ映像があった。毎晩2時間くらい、ずっと見ていたんだ」

 最初は「サッカーの王様」ペレ(ブラジル)の映像を見た。58年W杯、17歳で6点を決め、優勝に貢献したペレだ。が、「この人の真似はできない、オレはペレにはなれないと思った。それで、“この人だ”と感じたのが、エウゼビオだった」

 釜本は、66年W杯で得点王に輝き、プロ生活通算727試合で715得点を記録したポルトガルのストライカーの名を挙げた。

「こんな点取り屋になりたいと思ってね。それから毎晩、エウゼビオの映像を繰り返し見た。ボールを受け取る前の動き、どうやってディフェンダーを振り切って、パスをもらうタイミングを合わせるのか……」

 西ドイツで釜本を変えたのは、図書館での伝説の「黒豹」との出会いだった。

「それともうひとつ」

 釜本は恩師とも言われる名将デアヴァルとの逸話を話し始めた。

「3カ月目に、日本蹴球協会(当時)から手紙が届いた。日本代表のメキシコ遠征に、釜本を西ドイツから合流させてほしいって」

 出発は10日後だった。「あまり練習できず、芋と肉を食べ過ぎていた」釜本にデアヴァルが訊いた。

「お前のベスト体重は?」

「76キロ」

「いま何キロだ?」

「79キロです」

「じゃ、4キロ落とすぞ」

 食事はサラダと肉だけ。昼はマンツーマンで山の中を走り、インターバルダッシュを繰り返した。加えて1対1からのシュート練習。

「それで4キロ落ちた。計算が合わないと思ったけど、飛行機でメキシコに行ったら1キロ増えてベストになっていた。デアヴァルに、コンディショニングとは何かを教えてもらった」

ひとりじゃできない

 それから半世紀が過ぎた。日本サッカーは海外でも実績を重ね、国際的な評価も高まっている。だが、「決定力不足」の課題はなかなか解消されない。その点を釜本はどう見ているのか?

「サッカーは絶対にひとりじゃできないんだよ」

 意外な言葉が返ってきた。『それでも俺にパスを出せ』という著書もある釜本は、「ひとりでも点を取れる」と豪語する孤高の人かと思い込んでいた。

「最近の日本サッカーは、ひとりひとりの能力ばっかり評価している。違う。サッカーは必ず仲間が必要なんだ。例えば私は身体が大きい分、動きが鈍かった。ボールをもらってゴールに向き直る動きが遅い。だから一度、近くでボールをもらってくれる仲間が必要だった。その間に私はゴールに向いてもう一度ボールを渡してもらう。そういうパートナーが高校、大学、代表、ずっといてくれた。だからゴールを決められた。ひとりじゃサッカーはできないんだ」

小林信也(こばやし・のぶや)
1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。「ナンバー」編集部等を経て独立。『長島茂雄 夢をかなえたホームラン』『高校野球が危ない!』など著書多数。

週刊新潮 2021年2月11日号掲載

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