大河「青天を衝け」の「渋沢栄一」は類い稀なる“乗り鉄” 米国視察の仰天エピソード

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 新型コロナウイルスの影響で放送スケジュールに狂いが生じた大河ドラマだったが、2月14日から新シリーズ「青天を衝け」が始まる。主人公は日本資本主義の父・渋沢栄一で、若手俳優の吉沢亮が演じる。

 渋沢は営利企業だけでも約500社の創業・経営。支援に関わったとされるが、近代化の旗手とも称される鉄道会社の立ち上げには特に熱心だった。

 渋沢が関わった鉄道会社は、北は北海道から南は九州にまで及ぶ。それらの多くは1906年から1907年にかけて国有化されてしまったが、東急電鉄や京阪電鉄のように渋沢イズムを受け継ぐ鉄道会社もある。

 渋沢は屈指の実業家だから、多くの鉄道会社を立ち上げたことは不思議ではない。しかし、渋沢自身も日本国内のみならず海外でも鉄道を乗り回した体験を持つ。その行程を仔細に追ってみると、現代の“乗り鉄”に勝るとも劣らない。

 渋沢が活躍した明治から昭和初期は、現代のように自動車が普及していない。だから異動に鉄道を使うしかなかったという指摘もあるだろう。

 しかし、そうした背景を勘案しても、渋沢はほかの企業人よりはるかに行動的で、類い稀なる“乗り鉄”だった。

 渋沢は1840年に埼玉県血洗島(現・深谷市)に生まれた。当然ながら、このときに国内で鉄道は開業していない。国内初の鉄道は新橋(後の汐留)駅―横浜(現・桜木町)駅間で開業し、渋沢はその一番列車に明治新政府の役人として乗車した。

 しかし、渋沢の鉄道初体験はこのときではない。渋沢の鉄道初体験は、エジプトのスエズだった。渋沢がスエズで鉄道に乗ることになったのは、幕府の代表として将軍・徳川慶喜の弟・昭武がフランスに派遣されることになったからだ。渋沢は昭武の随員としてパリへ向かうことになったが、当時はスエズ運河が開削中だった。そのため、船から汽車へと乗り換えることになり、そこで鉄道を初体験する。スエズからアレクサンドリアまでの鉄道移動で、鉄道の利便性を実感。

 渋沢はパリに居住したが、パリ滞在中に昭武がオランダ・イタリア・イギリス・ベルギーなどを巡歴。これらの巡歴でも鉄道がフル活用された。随員だった渋沢の旅程の作成から理非の管理までを担当している。

 また、渋沢は鉄道に乗るという体験だけではなく、幕府から預かっていた滞在費用を目減りさせないために、フランスで鉄道公債を購入している。これが大きく資産を増やすことになり、鉄道が単なる移動手段ではなく経済発展に寄与するインフラ、資本主義の原動力であることに気づいた。

 1872年に華々しく開業した日本の鉄道だったが、莫大な費用を投じて建設したにもかかわらず利用者は低迷した。運営資金に悩まされていた政府の思惑を読み取り、渋沢は1875年に民間の鉄道会社を立ち上げた。これは新橋駅―横浜駅間の官営鉄道を払い下げてもらうために用意した鉄道会社で、旧大名家がその出資金の多くを工面した。

 新橋駅―横浜駅間の払い下げは叶わなかったが、これをきっかけにして政府内では私鉄を容認するムードが醸成され日本鉄道(現・JR東日本)へと結びついていく。

 岩倉具視が主導して設立された日本鉄道は上野駅―熊谷駅間を開業させた後、高崎駅方面へと線路を伸ばした。さらに大宮駅から分岐して、宇都宮駅・仙台駅・盛岡駅・青森駅へとつながる路線も開業していく。

 渋沢は日本鉄道の経営に関わることになるが、渋沢に託された使命は旧大名家たちの資産運用だった。版籍奉還が実施されてから、旧大名家は領地から収入を得ることができなくなり、自分たちで稼がなければならなくなった。とはいっても、これまで額に汗して働いたこともない大名が、一般庶民に混じって農作業に従事することなど難しい。

 そこで、旧徳島藩藩主の蜂須賀茂韶が資産運用を提案。その投資先として、将来有望と目された鉄道に投資することになった。日本鉄道には多額の投資が集まることになった。

 こうして日本鉄道が発足するわけだが、日本鉄道の開業と同時に王子駅が開設される。今は京浜東北線の停車駅だが、開業当時の王子駅は東北本線・高崎線の列車が停車する駅だった。

 王子駅が開設されると、渋沢は飛鳥山に別邸を建設。飛鳥山の邸宅から上野までを汽車に乗り、上野から日本橋兜町まで馬車鉄道で移動するという通勤スタイルを取り入れていく。後年、渋沢は本邸を飛鳥山に移すが、オフィスは日本橋兜町に置いたままだったので汽車通勤は続いた。

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