ハンク・アーロン、王貞治との本塁打競争(1974年)を振り返る、銀座で購入したモノは?

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東京の休日

 王もアーロンも、マスコミに“紳士的な態度”を報じられることが多かった。2人も互いに敬意を抱いていたことでも知られ、「世界少年野球大会」を協力して提唱し、1990年からスタートしたエピソードもある。

「週刊ポスト」は1974年11月22日号に「アーチ1本、150万円ナリ ホームラン競争に来日したHアーロン、東京の休日」という記事を掲載した。彼の穏やかな人柄が伝わる内容だ。

《ホームラン競争では1本150万円、10本で5万ドルを叩きだした男だが、カメラ店では「高い高い」を連発、いったん店を出てから思いだしたように夫人がハンクの手をひき「そのバーゲンのフィルムください」。しっかり者の夫人を信頼しきっているように表情ひとつ変えないハンクが印象的だ》

《「日本人がいったいどんなところで、どんなくらしをしているか、ぜひ見ていきたい」。せがむように言う。宝石店から陶器店へ。ふと本屋に立ちより、土産用の生花カレンダーをまとめて買った》

《アメリカン・ブラックパワーのもうひとりの英雄アリとは、ことごとに対照的な人柄を“置き土産”にハンクは去った》

2人の引退

 ちなみに同誌は同年11月15日号に「ハンク・アーロン獲得に動く “長嶋巨人”が純血主義を捨てる日」との記事を掲載した。

 翌年から長嶋茂雄(84)が巨人軍の監督に就任することに触れ、長嶋巨人がハンク・アーロンの獲得を目指すという内容だ。スポーツ紙記者のコメントを紹介しよう。

《「3番が王、4番がアーロンでいけば後楽園球場はもとより、どこの球場も超満員。衰えたりとはいえアーロンが日本で40ホーマー以上打つことは間違いないし、長嶋巨人も優勝を飾れるでしょう」》

 この構想は実現せず、アーロンは76年に現役を引退すると、ブレーブスの球団副会長などを歴任した。

 そして王も1980年に引退する。通算本塁打は868本だった。「週刊読売」は臨時増刊号(80年11月21日号)を発行、「ミスター・オーへ 大打者アーロン 大打者・王を語る」の記事を掲載した。

《ミスター・オーは、私の記録を破ったただ1人の選手として、また個人的にも知り合えた素晴らしい1人の男として、私の最も尊敬する人物の1人だ。これからもずっと、サダハル・オーを語るとき、私の名前も比較されて出していただけるのを光栄に思う。彼の輝かしい足跡は永遠に消えないだろう》

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