「オウム平田信」と共に逃亡を続けた「美人信者」 彼女を雇用し続けた「整骨院院長」の告白

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医師と同棲していた過去も

 同様に、整骨院の患者や近隣住人からも木村への不満は全く聞こえてこない。

「茶髪を三つ編みのおさげにしてアラレちゃんのようなメガネをかけていた彼女は“吉川先生”と呼ばれて親しまれていました。彼女がもう整骨院に来ないのかと思うと本当に寂しい。彼女は整骨院のマドンナだったからね」(近所の商店主)

 おそらく彼女自身、そうした温かい人間関係と環境が身に染みていたのだろう。出頭後、木村が滝本弁護士を通じて出したコメントにその思いが表れている。

〈特に大阪の人にはおわび申し上げます。偽名で勤務し、長く皆さんをだまし続けてきました。(中略)今日、私は17年ぶりに本名を名乗りました。私はずっとずっと偽名で生活し仕事をしてきました。そんな偽りの人生は終わりにします〉

 何故、木村は偽りの人生を送ることになったのか。

 彼女が大阪に至るまでの道程を振り返っておきたい。

 木村聡子は1962年、福島県須賀川市で生まれている。

 地元の中学校、高校を出て1年の浪人期間を経て関東の看護学校へ。卒業後、国立病院医療センター付属病院や防衛医大病院に 勤めていたが、ほどなくして退職。

 ボランティアで行った南アジアで体を壊し、帰国した後にヨガに出会う。オウムに入信したのは93年3月。半年後には出家した。木村、30歳の晩夏だ。

 木村の親族の1人がいう。

「あの娘がオウムに入信したというのは木村の家から聞いていたけど、古い考えの人が多い福島ではそういう人は変人扱いされるから、誰にも相談できなかったはず。結局、オウムをやめないあの娘と木村の家は大喧嘩をして、絶縁状態になったのです」

 警視庁の「平田追跡班」が作成した捜査資料によれば、木村にはオウムに入信する前の約2年半、医師と同棲していた過去がある。

 そんな木村の前に現れた“尊敬の念を抱かせる男”、それが平田だった。

 オウムの元信者は、東京本部で木村に対して特に熱心にヨガの指導を行う平田の姿を記憶している。

いつからだったか補助的な施術も

 平田が拉致監禁致死事件などに関わり、逃亡生活に入るのは95年3月。木村と行動を共にし始めるのはその1カ月後だ。

 数々の偽名を駆使して岩手県、埼玉県、福島県のホテルなどを転々とした木村は同年11月から翌96年2月まで宮城県仙台市内の割烹店に勤務していたが、「追跡班」がそれを掴んだのは2人が姿を消した後だった。

「彼女は店が借り上げたアパートで暮らしていたのですが、警察が踏み込んだところ、生活用品が2人分あった。後で捜査員に聞いたら、避妊具などの生々しい物も残されていたといいます」(元従業員)

「追跡班」が掴めた足取りはそこまで。2人は捜査の網をかいくぐって大阪の雑踏の中にもぐりこんだ。

 整骨院院長が述懐する。

「彼女は十数年前、アルバイトニュースを見て面接を受けに来ました。詳しくは聞きませんでしたが、それまではアパレル関係の会社で働いていたと言っていた気がします。看護士という話は聞いていません」

 整骨院が借り上げたマンションに住み、給料は手取りで20万円ほど。真面目な勤務態度を買われ、正社員に登用されたのは00年のことである。

 その際、「吉川祥子」名義での保険証を入手できたのは彼女にとって僥倖だったと言えるだろう。後に彼女は携帯電話を契約、銀行口座も開設している。

「社員になった時に地元の社会保険事務局に申請を出したら何の問題もなく保険証は交付されました。仕事は本当に真面目で、いつからだったか補助的な施術もやってもらっていました」

 と、院長が続ける。

「患者さんへの接し方も良かった。私は整骨院とは別に太極拳の講師もやっているのですが、彼女にも指導員のレベルになって欲しかったので習ってもらっていました。毎週水曜日にね。彼女としてはあまり気乗りがしなかったかもしれませんが、最近まで一生懸命にやっていましたよ」

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