「産業遺産」の中に日本再興の鍵がある――加藤康子(産業遺産情報センター長)【佐藤優の頂上対決】

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文化庁との闘い

佐藤 実際に世界文化遺産に登録されるまでは、たいへんな道のりだったと聞きました。

加藤 もう闘いの連続でしたね。登録までに16年かかりました。その間に総理は7人代わっています。

佐藤 そもそものきっかけは何だったのですか。

加藤 産業遺産を研究していた私に、薩摩藩に縁のある島津公保氏から「集成館」を世界遺産にできないか、と相談があったのが始まりです。集成館は、島津斉彬(なりあきら)のもと、大砲鋳造や蒸気船製造に取り組んだ工場群です。それが鹿児島県の伊藤祐一郎知事(当時)の賛同を得て、九州地方知事会に提案され、本格化しました。

佐藤 問題はその後ですね。

加藤 政府は毎年1件世界文化遺産を推薦しますが、当時は文化庁の文化審議会しか推薦する権限を持っていませんでした。それで文化庁に行くと、その第一声は、明治後期の遺産は教科書問題になるから落としてくれ、というもの。また文科省からも反発があり認めていただけませんでした。

佐藤 韓国や中国に対する配慮ですね。でも私は、日韓や日中で共通の歴史認識を作るという試み自体に意味がないと思っています。

加藤 歴史は国家の主権の問題です。

佐藤 もし単一の歴史観ができるなら、それはどちらかが併合された時です。また韓国に北朝鮮と共通の歴史観があるわけではないし、中国と台湾も同じではない。歴史の話をするなら、まず相手側で共通の歴史認識を作ってからにしてほしい。

加藤 そもそも文化財にできないという指摘もありました。推薦には文化財保護法の対象であることが必須でしたが、産業遺産は多くが企業の所有である上に、三菱重工業長崎造船所にあるジャイアント・カンチレバークレーンなど、いまも稼働しているものがある。そこが問題視されました。三池港の場合、ハミングバード(ハチドリ)形の港の形状も価値の一部ですが、水面は文化財保護法では担保できませんし、干満の差の激しい遠浅の干潟なので土砂の浚渫(しゅんせつ)をしなければ埋まってしまいます。

佐藤 それを言えば、港湾はすべて文化財になりませんね。

加藤 文化庁は文化財保護法を盾にしますが、世界遺産条約の作業指針を読むと、遺産価値が守られればどんな法律でもいいんです。文化財保護法云々は、勝手に日本が決めたルールでしかなかった。

佐藤 そこを突破されたわけですね。

加藤 全省庁が保存に貢献できるよう文化財保護法以外の法律適用も可能にし、内閣官房からも推薦できるよう規制改革していただきました。

佐藤 民主党政権の時代なんですね。

加藤 民主党は労働組合のご出身の方も多く、職場の話でもあり、よくわかっているんですよ。「鉄は国家なり」が実感としてある。

佐藤 いまの連合会長・神津里季生さんは、鉄鋼労連出身です。

加藤 逆に自民党の先生方は、文化庁の言うように幕末で収めておけばいいじゃないか、という人が結構いました。安倍前首相は別です。晋三先生はこの話に造詣も深く、よき理解者でした。

佐藤 加藤先生のご尊父は、元農水大臣の加藤六月氏で、現官房長官の加藤勝信氏は義弟です。いろいろな人脈があったのではないですか。

加藤 そう思われるのですが、私は永田町(政治)にも霞が関(行政)にも疎く、たいした根回しはできませんでした。

佐藤 もっとも、根回ししようとしても、官僚はそう簡単に既存の政策を変えないでしょう。

加藤 ひとつの転換点になったのは、炭坑の記録画「山本作兵衛コレクション」がユネスコの「世界の記憶」(記憶遺産)に登録されたことでした。

佐藤 筑豊ですね。

加藤 もともと高島、三池に次いで3番目に近代化された筑豊炭田も、構成遺産の中に入っていました。ただ歴史的意義はあっても遺り方が悪くて、ユネスコの基準を満たさず外さざるを得なくなりました。登録に一番熱心だったのが福岡県の田川市で、2千人集会をして盛り上がっていたのに落としてしまい、すぐにお詫びに伺いました。皆さんとても怒っていました。そこで作兵衛さんの絵や日記はユネスコの記憶遺産の価値があるかもしれない、とお話ししたところ「またお詫びにきてほしい」と言われ、何度か足を運んでいるうちに引くに引けなくなりました。これも文化庁や政府へ相談に行ったのですが、誰も相手にしてくれない。

佐藤 今年亡くなった元労働大臣の村上正邦先生は、筑豊炭田出身です。村上先生に繋がれば、すごい馬力を出してくれたでしょう。

加藤 それも存じ上げなかった。困り果てて、世界遺産のエキスパートであるオーストラリアの先生に相談して、こっそりオーストラリアから申請したんです。作業指針には、個人でも他の国からでも出せるとありましたから。そうしたら日本で第一号の記憶遺産になりました。内定を頂いた時、内閣官房の事務局長(当時)だった和泉洋人さんに相談したところ「君、日本政府をなめちゃいけないよ、世界遺産はそうはいかないから」と言われ、そのあとすぐに内閣官房に産業遺産室ができました。

佐藤 同時期に「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」も世界文化遺産に向けて動いていますね。

加藤 それがあったので、長崎は県議会、市議会が全会一致で明治の産業遺産には反対でした。最終的に文化庁が推薦したのがそのキリスト教関連遺産で、明治の産業革命遺産は内閣官房が推薦しました。

佐藤 あの隠れキリシタンの遺産については抵抗があるんです。あれは日本人がいかにカトリック教会の植民地主義に鈍感かということを表している。

加藤 それはどういうことですか。

佐藤 遠藤周作の『沈黙』を映画化したマーチン・スコセッシの「サイレンス」という映画がありますね。私が教える同志社大学神学部の学生たちに見せたら、一番優秀な学生がこう言いました。「これが起きたのは1633年で、三十年戦争の最中です。カトリックはヨーロッパでプロテスタント絶滅戦争を展開していたわけですから、日本でも同じことを考えてはいなかったでしょうか」と。

加藤 なるほど、プロテスタントの視点で見るんですね。

佐藤 さらに「彼らは同じように日本の神社仏閣を全滅させようとしたから反発を受けたわけで、信徒たちを殉教にまで追い込んでいる」と指摘し、「非常に植民地主義的だ」と言いました。日本ではキリスト教徒をみな同じように考えますが、プロテスタントはあの世界文化遺産からまったく違った意味を読み取るのです。

韓国の激しい反対運動

加藤 産業革命遺産はそのキリスト教関連遺産に先立って世界文化遺産に登録されましたが、ユネスコの諮問機関イコモス(国際記念物遺跡会議)の審査から登録勧告、登録の過程も非常に大変でした。

佐藤 韓国の反対ですね。

加藤 政治利用は許されないのに、イコモスの審査中に韓国政府は正式に反対を表明し、軍艦島こと端島(はしま)の炭鉱に焦点を当て、ものすごい反対運動を展開しました。ユネスコ事務局、世界遺産委員国19カ国、イコモスの審査員を政府高官が訪問し、日本を糾弾して回った。登録を決める世界遺産委員会では「盗まれた国、拉致された人々」という小冊子や「目覚めよユネスコ、目覚めよ世界、目覚めよ人類」と書かれたパンフレットなどを大量に配布しました。そこに載っている写真は明らかな誤りだったり真偽不明だったりするものが多いのですが、端島は朝鮮半島から強制連行された人たちが奴隷労働させられた「地獄島」だという印象を参加各国に強く与えました。

佐藤 そこは当然、韓国政府が全力を投入してくるでしょうね。

加藤 トイレから出てきたら柱の陰で「ナチスの施設を世界遺産にするようなものだ」と委員に説明している。一番対応に苦慮したのは、議長国のドイツでした。マリア・べーマー議長は、日本がドイツと同じことをやったと信じていた。しかもだんだん産業革命遺産とは価値の異なる第2次大戦の戦時徴用に論点が移っていきました。

佐藤 外務省はどうでしたか。

加藤 個人差はあると思いますが、歴史戦を戦うのが苦手でしょう。あまり味方になってくれませんでしたね。私も委員国を回って、端島のデータや死亡者の統計を見せてきちんと説明すると、外務省は慌てるんですよ。そんなことを話してはダメだって。

佐藤 「触らぬ神に祟りなし」という方針ですね。

加藤 国外の方々には随分と助けられました。セルビアの大使やカタールの専門家からは多くの助言をいただきましたし、ベトナムやインドも応援してくれました。

佐藤 韓国に好意的な国ばかりではないですよ。

加藤 普通はイコモスで登録勧告されればそのまま通りますが、外務省の弱腰もあり、登録に際して「歴史全体について理解できる説明戦略」が求められました。韓国が提起した第2次大戦中の朝鮮半島出身者の戦時徴用問題については、このセンターでも一次資料を集め、端島の元島民70名以上に聞き取り調査をしています。ただ韓国が主張することは事実として出てきていないですね。

佐藤 こうした困難を乗り越えてきた加藤先生の原動力は何だったのでしょうか。

加藤 父の選挙区は岡山で、選挙を手伝う時には町工場とか水島の工業地帯を回るんですね。当時、重厚長大産業が廃れ始めた時期で、あの企業の明かりがなくなったら、この地域はどうなるのだろうと思ったことが原点にあります。それで企業城下町を研究するようになった。

佐藤 大学は何学部ですか。

加藤 文学部で国文学を専攻しましたが、そうした体験からアメリカへ都市経済学を学びに行きました。閉山した炭鉱や、高炉が消えた鉄鋼の町がアメリカにもたくさんあります。そこに最後まで残っているのは何だと思います?

佐藤 教会でしょうか。

加藤 飲み屋と葬儀屋です。失業者と高齢者は逃げられませんから。それで、あっ、日本もいつかこういう日が来るかもしれないと思った。

佐藤 いつくらいのことでしょう。

加藤 1980年代です。ただ同時に産業遺産を活用して復活した例もありました。それらをまとめて『産業遺産』という本を書いたのですが、その中で思ったのは、やっぱり日本の力の源泉は技術だということです。明治の強さは、国内に技術のある人材を育成し、産業を興し、外に出ていく力を蓄えたことです。弛(たゆ)まず屈せず何度でも挑戦し、いまの日本の土台を作った。そんな活力ある日本を取り戻してほしいんですよ。それには生産性を上げ、最新の技術を使って、日本はもう一度モノづくりに取り組まなければならない。世界遺産プロジェクトには、それを伝えるために取り組んでいるのです。

加藤康子(かとうこうこ) 産業遺産情報センター長
1959年東京生まれ。慶應義塾大学文学部卒。ハーバード大学ケネディスクール都市経済学修士課程修了。国内外の企業城下町の研究に取り組みながら。「明治日本の産業革命遺産」の世界文化遺産登録で中心的役割を果たす。2015~19年内閣官房参与。(一財)産業遺産国民会議専務理事。著作に『産業遺産』がある。

週刊新潮 2020年12月24日号掲載

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