「電波少年」がWOWOWで復活 土屋プロデューサーが語る“仰天秘話と新作青写真”

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 アポなし取材や海外ヒッチハイクの旅で一時代を築いた日本テレビの「電波少年シリーズ」(1992~2003年)の新作が来年1月16日から始まる。放送するのはWOWOWで、番組名は「電波少年W~あなたのテレビの記憶を集めた~い!~」となるが、制作するのは土屋敏男氏(64)で同じ。司会は初代MCの松本明子(54)と松村邦洋(53)。新作の青写真と旧作の裏話を土屋氏に聞いた。

「電波少年」の総指揮官として名を馳せた「Tプロデューサー」こと土屋氏は現在、日テレのシニアクリエイターという立場。一方で東大大学院情報学環の非常勤講師などいくつかの大学でテレビに関する講義を行っている。

 今、どうして伝説的番組を復活させる気になったのか。

「昨年9月にWOWOWで講演をさせていただいた際、幹部の方たちから『またやりませんか』と誘われたのです。でも冗談だと思い、受け流しました」(土屋氏、以下同)

 ところが、WOWOWは本気だった。その後、田中晃社長(66)から再び制作の依頼を受ける。

「田中社長から『うちは今後、コミュニティというものを軸にしてやっていきたい』と説明されました。それは面白いと思ったんです。テレビは長らく一方的にドーンと番組を流してきましたが、今はSNSなどを生かせばコミュニティが作れる。これを使って新しい『電波少年』を制作してみたいと思い、お引き受けしたんです」

「電波少年W」の内容を紹介する前に旧作を振り返っておきたい。なにしろ終了から17年が過ぎた。

 最高世帯視聴率は「なすびの懸賞生活」「朋友アメリカ〜ヨーロッパヒッチハイクの旅」「R―マニア スワンの旅」(1998年8月、10月)で記録された30・4%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)。お化け番組だったのだ。

 最初に売り物になった企画はアポなし取材。MCの松本明子や松村邦洋らがあらゆる著名人やVIPをアポなしで訪ね、お願い事の実現を図った。

 首相就任前で社会党委員長だった村山富市氏(96)には長い眉毛を切らせてもらった。水泳中に溺れてしまった評論家の故・吉本隆明氏には息継ぎを指導。首相当時の森喜朗氏(83)にはお年玉をせびった。取材困難と思われる人ばかりにガチで突撃するのが特色だった。

 海外取材も敢行した。パレスチナ解放機構(PLO)議長だった故・アラファト議長を松本が訪ねたことも。松本がアラファト氏に歌のデュエットを懇願した。これは実現しなかったものの、アラファト氏は松本を歓待。視聴者を驚かせた。

「もともと『アポなし取材』という企画があったわけではないんですよ。松本さんが、身長2メートル27センチで日本最長身バスケット選手だった岡山恭崇(66)さんに会いに行ったところ、直前になってNGになった。だから『会えるまで張り込め』と指示したら、本当に会えてしまった。これがアポなし取材の始まりでした」

 なんでもアリだったようで、土屋氏がボツにした企画もある。例えば、ジャンボ尾崎(73)のパットを途中で止めてしまうというもの。確かに実行したらシャレにならないかも…。

 渡邉恒雄・読売新聞グループ本社代表取締役主筆(94)の取材もボツになった。

「『ナベツネさんをツネツネしたい』という企画でした」

 放送も十分刺激的だったが、その企画会議はもっと過激だったようだ。

 アポなし取材の認知度が高まると、松村が国会議事堂や議員会館の周辺を歩くだけで、警官が飛んでくるようになった。一方で知名度や好感度がアップするので、取材を歓迎する政治家も出てきた。

 ほかの著名人たちも同じ。アポなし取材は緊張感が漂っていてこそ面白く、笑顔で迎えられたら興ざめ。国内では有名になりすぎた。

 そこで次に土屋氏が考えたのが、海外展開だった。「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」である。

「企画はみんな思い付き。『思い付きをすぐに実行する番組』。それが僕の中での『電波少年』です」

 猿岩石の旅は空前の人気となった。次はドロンズが南米アメリカ大陸を縦断したが、これも大好評を博す。その後も海外の旅シリーズは続いた。

 視聴率は好調だったものの、国内ロケと違って海外は想定外の出来事が付き物だ。心労が絶えなかったようだ。

 キャイ~ンの2人がインドを旅していた時には、ウド鈴木(50)を隠れて付いて行っていたスタッフが見失ってしまった。ウドの行方不明状態が丸1日以上続いた。

「現地で記者会見を開き、懸賞金をかけて探すしかないと一時は思いました」

懸賞生活 秘話

 1998年の「電波少年的懸賞生活」も土屋氏の思いつき。懸賞の賞品だけで人間は暮らせるものかどうかと考えた。オーディションで選ばれ、起用されたのは若手お笑いタレント・なすび(45)だった。

「これはとんでもないツキがあったとしか言えない。なすび君は1年3カ月間、ひたすら部屋に篭もって懸賞ハガキを書き続けたのですが、そんなことが出来るのは彼しかいない。まさに超人ですよ。そんな彼がオーディションに来てくれたのはツイていました」

 ただし、この企画はやはり相当辛かったようで、なすびは10年間、土屋氏と会いたがらなかった。

 やはり思いつきで生まれた企画が、2000年の「電波少年的東大一直線」だ。

「ふと『人間って半年勉強したら、東大に入れねえかな』って思ったんです」

 オーディションで受験生に選ばれたのが、当時23歳だった坂本ちゃんだった。最初は分数の引き算すら出来ず、東大はおろか、どんな大学も合格は難しいと思われたが、東大卒の敏腕家庭教師・ケイコ先生(春野恵子、47)の指導で猛勉強し、めきめきと学力をアップさせた。

 結局、東大は無理だったものの、日大文理学部など8校に見事合格。晴れて同大に入学した。

「ショックを受けていた人間もいました。電波少年のスタッフに日大の文理を出たプロデューサーがいるんです。『俺の大学は半年勉強したら入れるのか…』って(笑)」

 坂本ちゃんには前任者がいた。だが、勉強漬けの日々が耐えられず、逃げ出した。

「脱走すると、だいたい彼女のところに逃げこむんです。この時もそうでした。そこで彼女の家を探し、訪ねたら、押し入れの中に隠れていました(笑)」

 その後、ファミレスで朝まで話し合ったが、彼が戻って来ることはなかったという。

 思いつきと言うが、よくぞここまで奇想天外な企画が生み出せたものだ。

「ガキなんですよ(笑)」

 また、内容が物議を醸したことはあるものの、深刻な問題と化したことはない。

「正直だったのが良かった気がします。隠そうと思わなかった。例えば番組に登場させたロシナンテというロバはペルーから連れてきたと紹介しましたが、検疫の問題で連れて来れなかった。それを指摘されると、すぐ『実は北海道から連れてきました。本名は木村嘉夫でーす』とすぐに白状しました」(土屋氏)

 さて、新たな「電波少年W」はどんな企画を考えているのだろう。

「コミュニティが作り出す番組にしますが、そのテーマはテレビの記憶。今はYouTubeや配信動画などに押され気味ですが、日本人ほどテレビに熱中してきた国民は世界中どこを探してもいないんです。テレビについて語り合いたいし残したい」

 そのコミュニティで盛り上がった「テレビ番組の記憶」について、該当する番組のその当時の制作者と視聴者がやり取りする場も設けたいという。

 土屋氏が個人的に思い入れのある番組はオープニングが怖かった「ウルトラQ」(TBS、1966)、お笑い番組の革命だった「オレたちひょうきん族」(フジテレビ、1981)と「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」(日テレ、1985)、所ジョージ(65)がデビューした「ぎんざNOW!」(TBS、1972)…。無数の番組が俎上にのりそうだ。

 やんちゃな企画は封印?

「いやー、僕の性格は変わってませんからね(笑)」

 どうやら刺激的な企画も再び用意されそうだ。ノンスクランブル放送なので、WOWOWに加入しなくても見られる。

■つちや・としお 1956年、静岡県生まれ。79年、一橋大社会学部卒。同年、日本テレビ入社。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」などのディレクターを務めた後、「電波少年」シリーズでプロデューサー。以後、編成部長、コンテンツ事業推進部長、編成局専門局長などを歴任。現在はデータマネジメント室R&Dラボのシニアクリエイター。

高堀冬彦(たかほり・ふゆひこ)
放送コラムニスト、ジャーナリスト。1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て、2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長を歴任し、2019年4月に退社し独立。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年12月13日掲載

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