東洋の魔女・井戸川絹子さん逝去 11月に語った「鬼の大松」の真実

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「東洋の魔女」と呼ばれた全日本女子バレーボールのメンバー、谷田絹子(現姓・井戸川)さんが、脳出血のため12月4日に亡くなった。81歳だった。スポーツライターの小林信也氏は、11月27日に谷田さんにインタビューし、“鬼の大松”と称された「東洋の魔女」監督・大松博文監督の逸話を伺っていた。

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 東洋の魔女。1964年の東京五輪、女子バレーボールで金メダルを獲得した女子日本代表に付けられた尊称である。

 正確には12人のうち10人を占める日紡貝塚が61年のヨーロッパ遠征で22連勝を記録した時、海外メディアが“東洋の台風”“東洋から来た魔法使い”と呼んだのが由来だ。9人制から6人制に移行し、3人分をカバーするため編み出した“回転レシーブ”の衝撃が、魔法使いを彷彿させたらしい。

 翌62年の世界選手権に優勝。このとき選手たち、そして大松博文監督は引退を決めていた。「世界一になるまで」の約束で猛練習を重ね、目標を果たしたからだ。

 ところが、世間は引退を許さなかった。2年後の東京五輪、バレーボールが正式種目に決まった。5000通を超える嘆願の手紙が大松監督に届いたという。

「大松監督は“どうする?お前らはどうやねん”って。1週間くらいですかね、私たち選手で話し合いました」

 教えてくれたのは、エース・アタッカーだった谷田絹子(現姓・井戸川)だ。

 何を話し合ったのか。

「東京オリンピックに出たら勝てるのか? 出る以上、勝つ、私たちはソ連に勝てるのか? それだけでした」

 結婚かバレーか、そういう議論ではなかったと聞いて、東洋の魔女たちの発想の違いに胸を衝かれた。

「私たちは元々9人制の選手。アタック専門の私はレシーブが苦手。だから、“私はレシーブようせんから、誰か頼むわ”。すると“アタックはお願い”ってね」

 話し合いにケリをつけたのは誰だったのか?

「年長の河西(昌枝)さんが“私はやります”って。そしたら“私は辞めます”なんて言えません。監督は“誰のためでもない。自分のために勝つんや”と言ってくれたけど、私は純粋に、“日本のためにやろう”“負けたらもう日本にはいられない”、そう思いました」

 日系アメリカ人ジャーナリストのロイ・トミザワは著書『1964 日本が最高に輝いた年』(文芸社)の中にこう記している。

〈「鬼の大松」の練習風景を取材した西側のメディアは、その指導方法を虐待と称した。〉

 すでに海外では、そのような認識があったのだ。

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