「200勝」「2000本安打」達成目前だったのに…大記録を逃した選手「それぞれの事情」

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 プロ野球の世界に足を踏み入れた選手であれば、投手なら通算200勝もしくは250セーブ、打者なら2000本安打、すなわち「日本プロ野球名球会」入りの条件をクリアすることが大きな目標となるだろう。今シーズンでいえば、巨人の坂本勇人が通算2000本安打に向けてヒットを量産していることが印象的だ。その条件は一流プレーヤーの証とされるからであり、特に名球会が誕生した1978年以降はその傾向が強くなった。だからこそ、現役の晩年を自覚しながらも記録達成が近づいた選手は何とかしてクリアして自らの野球人生に花を添えようと最後の力を振り絞るのだ。

 例えば、巨人のV9時代のエースをして長年チームを支えた堀内恒夫は入団1年目の66年から13年連続2ケタ勝利を記録、78年までに194勝を積み上げた。78年には12勝をマークしていただけに200勝も難なくクリアするものと思われたが、79年はわずかに4勝を挙げたのみ。江川卓や西本聖など若手投手の台頭もあって登板の機会が減ったものの、それでも6回雨天コールドゲームとなった80年6月2日のヤクルト戦で1失点完投勝利、悲願の通算200勝を達成した。

 一方、200勝に最も近づきながら引退したのが通算197勝の長谷川良平だ。50年、球団創設とともに広島に入団。相手打者のバットをへし折る切れ味鋭いシュートを武器に1年目からチームトップの15勝を挙げたほか、55年には30勝をマークして大友工(巨人)とともに最多勝のタイトルを獲得するなどエースとして長くチームを支えた。

 しかし、50年~60年の11年間で20勝以上4回を含む10回の2ケタ勝利を挙げたさしもの鉄腕長谷川も63年はわずか2勝に終わり、節目の200勝まであと3勝に迫りながらもこの年限りで引退した。後年、長谷川本人は、「それまで決して打たれることの無かった右バッターのインコースを抉る決め球のシュートを、若い選手に詰まりながらもヒットにされた。あのコースを打たれたらもう俺も終わりだなと覚悟したよ」と語っており、本人も納得しての潔い引き際だったようだ。

 ちなみに、長谷川はプロの選手としては小柄な167センチしかなく「小さな大投手」と呼ばれたが、今、現役選手として200勝に最も近づいている石川雅規(ヤクルト)も奇しくも同じ167センチ。無念のリタイアをした長谷川の思いを引き継いで何とか達成してほしいものだ。

 さらに、長谷川に次ぐ通算193勝をマークしたのが秋山登だ。56年に明大から大洋に入団。長谷川同様1年目からフル回転で1人マウンドを死守したが、当時の大洋はことのほか弱かった。秋山が在籍していた12年間で4年連続最下位を含みAクラスは3回だけというのだから、しばしば好投を見せた秋山が勝ち星に恵まれなかったのも当然だろう。秋山がいかに酷使されていたかを物語る記録がある。それはダブルヘッダーで2試合とも登板、1日2勝を挙げたことが5回もあるということだ。こんな無茶苦茶な使われ方は今では考えられないが、これだけ無理をさせられれば故障するのも当たり前だろう。64年に21勝を挙げ通算181勝をマークして以来3年間で12勝を積み上げるのが精一杯。67年限りで現役生活に幕を下ろした。

 長谷川、秋山に共通するのは、どちらも弱小チーム一筋にエースとして投げ続けたということだ。連日のように登板し、いくら好投しても勝ち星がつかないことも多かったはずだ。2人ともまだ名球会が組織される以前の選手で、もし、その頃名球会があったら何としてでもあと3勝、あと7勝を積み上げようとしたことだろうが、その点では200勝に対する思いは今とはちょっと違っていた。それより2人がもっと強いチームにいたら200勝どころか300勝できていたかもしれない。その意味で長谷川も秋山ももっと評価されていい投手といえるだろう。

 さて、次に打者を見てみよう。節目の2000本安打に近づきながらも引退したのは飯田徳治(南海→国鉄)の1978本を筆頭に、毒島章一(東映)1977本、小玉明利(近鉄→阪神)1963本、谷佳知(オリックス→巨人→オリックス)1928本、井端弘和(中日→巨人)1912本の順となる。このうち大学時代からの盟友、高橋由伸が現役を退き巨人の監督に就任するのに伴い、自らも引退して内野守備走塁コーチとなった井端は、まだまだ余力を残していただけに残り88本ならおそらく2年もあれば十分達成できたはずだが、アキレス腱の断絶が引退の引き金になった飯田をはじめ他の3人にはもはやその力は残っていなかったようだ。

 残り23本の毒島には1つのエピソードがある、54年、毒島は群馬県の桐生高校から東映に入団した。駒沢球場を本拠地としていた東映は張本勲、山本八郎など気性の荒い選手が多く、数々のトラブルを引き起こして「駒沢の暴れん坊」といわれるチームだったが、その中にあって毒島は温厚な性格で知られ入団1年目からレギュラーとして活躍、「ミスターフライヤーズ」と呼ばれてファンに愛された選手だった。

 ところが70年、右ひじを痛めたこともあり、103試合に出場し220打数51安打5本塁打、打率.232という入団以来最低の成績に終わると、当時の田宮謙次郎監督からコーチ就任を打診され、一度は固辞したものの、翌71年は守備固めで4試合に出場しただけで一度も打席に立つことはなく、そのまま現役生活にピリオドを打った。

 その最後の年の71年、毒島があと23安打で通算2000本安打に到達することを知ったあるスポーツ新聞の記者が田宮に言った。

「あと少しで2000本安打じゃないですか。毒島を使ったらどうですか?」
 
 すると、田宮は澄ました顔でこういったという。

「もう2000本打ったのと一緒じゃないか」
 
 一方、当の毒島も、後年ある雑誌のインタビューに答えて、「数字は全く気にならなかったですね。2000本といわれてもそれがどうしたって感じでしたから。田宮さんにそれだけ打ったらもういいだろっていわれて、すんなり現役を辞めようと思ったんですよ」と当時の心境を淡々と話している。

 今年の坂本の例を挙げるまでもなく、2000本安打が近づけばスポーツ紙がカウントダウンして盛んに盛り上げる今とは大きな違いだ。これも時代の流れというものなのだろうか。

清水一利(しみず・かずとし)
1955年生まれ。フリーライター。PR会社勤務を経て、編集プロダクションを主宰。著書に「『東北のハワイ』は、なぜV字回復したのか スパリゾートハワイアンズの奇跡」(集英社新書)「SOS!500人を救え!~3.11石巻市立病院の5日間」(三一書房)など。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年11月19日掲載

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