「日本に学んだ」李健煕サムスン会長が語った「韓国の政治は4流、官僚と行政組織は3流、企業は2流」

国際 韓国・北朝鮮 2020年10月29日掲載

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小5の時から東京の学校に通い始めた

 10月25日、サムスンを世界の一流企業に成長させた李健煕(イ・ゴンヒ)サムスン電子会長が死去した。2014年5月、彼は心筋梗塞で入院し、6年以上も闘病生活を送っていた。韓国メディアは連日関連報道を行い、彼の企業経営の手腕を称えているが、「日本で学び育った」ことについては全く触れることがない。

 サムスン電子は2010年にスマートフォンブランド「ギャラクシー」を発売し、2012年にはアップル社の「iPhone」を抜き、世界のスマートフォンのシェア1位となった。

 サムスン電子は現在、アップル、Xiaomiと共にスマートフォンBIG3と呼ばれており、その売上高は今年度、韓国のGDPの20%近くを占めることが明らかになっている。

 世界的なブランディング専門会社「インターブランド」が発表した2020年の「ベスト・グローバル・ブランド」において、サムスン電子のブランド価値は約623億ドル(約6兆5330億円)となり、アップル、アマゾン、マイクロソフト、グーグルに次いで5位となった。

 そんなIT帝国を率いてきた李健煕会長を語るとき、日本を抜きにはできない。

 サムスングループの創業者である父・故 李秉喆(イ・ビョル)は、1929年から31年まで日本に留学し早稲田大学政治経済学部で学んだ。

 経営者となった1950年代、砂糖と小麦粉など食料品と毛織物製造事業への進出を計画。シャープ、新日本製鐵、伊藤忠商事との取り引きを通じて日本の技術とノウハウを積極的に導入した。

 李秉喆は息子の健煕に「日本で先進の学問を学んでこい」と指示し、1953年、彼は小5の時から東京の学校に通い始めた。

 当時の日本はテレビが登場し、洗濯機や冷蔵庫などの家電が家庭に普及し始めた時期であり、韓国との歴然たる格差に彼は衝撃を禁じ得なかった。

日本で学んだ「量より品質」

 韓国に帰国した李健煕は父親の勧めで早稲田大学商学部に留学したものの、勉学に興味はなく、落第をやっと逃れるほどの成績だった。

 大学時代の彼は、スポーツ選手や前科20犯の詐欺師、反社会勢力の日本人らと交流を重ねたりもしたのだが……。

 1979年にはサムスン副会長に昇進して後継者の道を歩むようになり、1998年4月からはサムスン電子会長に就任。

「妻と子以外はすべて変えよう」

 李健熙会長のこの発言は、韓国では名言として知られている。

 1993年6月7日、彼はドイツ・フランクフルトのキャンプスキーホテルにて、約200人のサムスン首脳部を招集して会議を開いた。その時の李健熙会長の表情は非常に硬く、その声には怒りがこみ上げていた

 1992年、サムスンは世界で初めて64MDRAM半導体の開発に成功した。サムスンがメモリー強国の日本を初めて追い越し、世界1位の座に昇りつめた栄光の瞬間だった。

 しかし、落とし穴があった。内部告発により洗濯機に関する不正が暴露されたのだ。

 サムスンは生産量拡大に余念がなく、自社のエンジニアが不良部品だという事実を知っているにも関わらず、不良部分だけを刃物で適当に削り取って洗濯機を組み立てていた。

 その現場を撮影したビデオが出回り、李健熙会長は首脳部に対して激怒し、こう宣言したわけだ。

「洗濯機も同じことだが、ビデオデッキは不良が出れば、100人中50人は二度と購入しない。量ではなく質だ。まだみんな量を重視している」

「結局、変えるべきことは徹底的に変えなければならない。極端な話だが、妻と子以外はすべて変えよう」

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