学生の「読書時間ゼロ」50%で日本は終わる!

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このままでは二極化が

 このような実学志向や脱知識偏重といった動きと軌を一にした若者の読書離れによる語彙力の低下が、実用文さえ理解できないほどの読解力の低下を招いているのである。実社会で役に立たないことはしたくないということで、読書しない若者が急速に増えている。読書しているという学生でも、すぐ役に立つ実用書しか読まないという者も少なくない。実用文を理解できるようにするには実用文を読む訓練をすればいいというのではなく、小説や評論を読解する能力を鍛えることで実用文くらいは簡単に読解できるという方向にもっていくべきではないか。

 このところの教育改革は、実用的な知識やスキルの習得を重視する方向にどんどん向かっている。そうでありながら「主体的で深い学び」が大切だという。深い学びに導くなら、実用性重視からの軌道修正が必要ではないだろうか。小説や詩を鑑賞したり、評論や随筆を読んで作者の言いたいことを読み取ったりする学習と比べて、広報や契約書など実用文の内容を理解しようとする学習の方が深い学びになるとは到底思えない。

 たしかに広報や契約書も理解できない人が多いのは困ったことだが、学校教育を最低限の水準まで落とす必要はない。実用的な用途を重視しすぎると、これまでの国語の学習でやってきた、作品の登場人物や作者の言いたいことや気持ちを汲み取ろうと想像力を働かせる類の学習が欠落するため、相手の言っていることがわからない、相手が何を考えているのかわからないという、コミュニケーションがうまくいかない人間がますます増えていくだろう。

 さらには、実用文のような薄っぺらい文章しか読まないのでは、小説や詩、評論や随筆に込められている深い思いや考えに触れることができないため、人生上の課題を乗り越えるためのヒントとなる言葉や視点を自分の中に取り込み蓄積することもできない。

 進学校の生徒たちの多くは、元々知的好奇心が強く、本をよく読み、読解力を身につけているため、実用文の勉強など改めてやる必要はないので、新しい学習指導要領に切り替わっても、私立学校の国語の授業では小説を読ませるかもしれないし、自分自身の趣味や学習としても小説を積極的に読むかもしれない。

 一方で、元々知的好奇心が乏しく、実用性ばかりを追求する生徒たちは、日頃から本を読まず、読解力が乏しいため、国語の授業で実用文の読み方を学ぶようになる。授業でもほとんど文学を扱わないということになると、文学作品には生涯ほとんど触れることのない人生を送ることになるのだろう。

 これにより、文学や評論に親しんで想像力や思考力を磨き、また豊かな知恵を身につけている教養人と、実用文を読むだけの非教養人の二極化が進むに違いない。欧米社会は元々そうした二極化を当然としてきたが、平等な扱いを好む日本国民は、そのような知的階層形成にはたして納得できるだろうか。

 今、大きな社会問題にもなっている若い世代の読解力の低下は、読書離れによってもたらされていると言っても過言ではない。ゆえに、教育政策を立案する立場にある人も、入試問題や教科書を作成する立場にある人たちも、そして教育現場に身を置く人も、ぜひ読書離れを食い止め、むしろ読書を促すことを意識していただきたい。それによって、人の言うこともちゃんと理解できるようになるだろうし、実用文も読めるようになるはずである。

心理学者 榎本博明

榎本博明(えのもとひろあき)
心理学者。1955年、東京都生まれ。心理学博士。東京大学教育心理学科卒業。大阪大学大学院助教授等を経てMP人間科学研究所代表。著書に『伸びる子どもは○○がすごい』『ほめると子どもはダメになる』『ビジネス心理学大全』など。

週刊新潮 2020年10月22日号掲載

特集「学生の『読書時間ゼロ』50%で日本は終わる!」より

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