結成50年「細野晴臣」が回想する「大瀧詠一」と「はっぴいえんど」(篠原 章)

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音楽のイノベーション

 はっぴいえんどの場合、現代詩や現代演劇にも通ずる、松本による新しいスタイルの日本語詞が、大瀧や細野の手になる「出所不明のサウンド」に乗せられていた。出所不明とは、さまざまな英米アーティストの作品や作風の断片が、モザイクのように嵌めこまれていたという意味だ。はっぴいえんどは、日本という市場や環境に合わせて、移入文化である英米ロックのエッセンスを再構成して結合し、初めて自覚的な「日本のロック」を作りあげたのである。日本という土壌に合ったかたちでの欧米文化の変換という点では、明治期あるいは戦後期の文学やアート、思想がたどってきた道筋にも似ている。

 英米に倣うという従来のロック観からすれば異質だったが、日本という文脈では画期的だったはっぴいえんどのロック。彼らの手法に反発する人びともいたが、福田一郎など著名な評論家やミッキー・カーチスなど有力なミュージシャンを含む音楽業界関係者のなかから、「はっぴいえんどこそ日本のロックのあるべき姿だ」といった高い評価が続出した。デビューから約1年経った71年春には、最初のアルバム「はっぴいえんど」(通称「ゆでめん」)が、日本最初のロック専門誌「ニューミュージック・マガジン」(創刊時編集長・中村とうよう、後に「ミュージック・マガジン」と改称)が選ぶ「第2回日本のロック賞」に選ばれている。「ゆでめん」とは、イラストレーターの林静一が手がけたアルバム・ジャケットに、「ゆでめん」の看板が描かれているところから付けられた通称である。

 当時の日本の音楽業界のモードを振り返ると、英米のロックに片足を突っこみながらも歌謡界・芸能界の流儀から脱け出しきれなかったグループ・サウンズ(GS)が衰退し、学生運動や反戦運動とリンクした岡林信康、高石友也(ともや)などといった政治性の強いフォーク・ソング(当時は反戦・反体制フォーク、アングラ・フォークなどと呼ばれた)が若い世代の人気を集めつつあった。こうしたフォークの影響を受けた吉田拓郎や井上陽水が登場するのはその直後である。英米ロックのコピーでもなければ、GSとは似ても似つかぬ、かといって政治性の強いフォークとも一線を画していたはっぴいえんどは、日本のロックやポップスの歩むべき道筋を示す、ちょっとしたイノベーションだった。

 はっぴいえんど以前と以後では、明らかに日本のロックのテイストやガイドラインは大きく変わった。英米ロックを手本としながらも、それらとは異なる場所に日本のロックとしてのオリジナリティを見いだし、ひと皮むけた、新しい国産ロックが目標とされるようになった。70年代・80年代を通じて、その影響は歌謡曲やポップスの世界全般に及び、はっぴいえんどに端を発するこうした動きは、いま我々が「Jポップ」「Jロック」と呼ぶ音楽の土台を形成するに至っている。一介の売れないバンドが、日本のポピュラー音楽史に一つの画期を作りだしたのである。

同時代人・大瀧詠一

 はっぴいえんど結成50周年に当たり、はっぴいえんどに対するこうした評価を、その両輪だった細野と大瀧にぶつけてじっくり話を聴きたいところだったが、残念なことに大瀧はすでに鬼籍に入っている。

 そこで、盟友として、あるいはライバルとして大瀧を最も良く知る細野晴臣に、大瀧の分まで話してもらうつもりでインタビューに臨んだ。なお、新型コロナウイルスによる自粛の影響で、インタビューがメールでのやり取りとなったため、ここでは相互のメールを再構成している(一部編集)。

篠原 はっぴいえんどが結成されてから50年経ちました。細野さん、松本隆さん、鈴木茂さんは今もお元気にご活躍ですが、残念ながら大瀧詠一さんは亡くなられてしまいました。はっぴいえんど解散後も細野さんと大瀧さんは、お互いに最良の理解者であると同時に良きライバルでもありました。細野さんなくして大瀧さんは生まれなかったし、大瀧さんなくして細野さんは生まれなかった。そうしたことを踏まえてお尋ねしますが、細野さんにとって大瀧さんとはどのような存在だったのでしょうか。

細野 1枚目の「ゆでめん」は大瀧詠一なくしては作れなかった。当初は小坂忠(当時のロック・シンガー。現在もポップス、ゴスペルのアーティストとして活躍中――篠原註)がボーカルで参加するはずだったが、他の道に進むことでバンド計画が頓挫していた。そういう時に大瀧くんが参加したことは決定的だった。自分は楽器ざんまいのプレイヤー指向が強く、歌を歌うことなどあまり考えていなかったからだ。大瀧くんはニルソンやバッファロー・スプリングフィールドのスティーヴン・スティルスのような声のトーンを持つ、歌心のある人だったので、リード・ボーカルを得たことがはっぴいえんどの出発点だった。同世代である大瀧くんと自分は同じラジオ・デイズを経験している。リアルタイムであらゆるポップスを吸収したぼくたちは幸運だった。だが今はその頃の音楽を話す同世代も少なく、大瀧くんの死は大きな喪失だ。ソロ・アルバムをつくる度に大瀧くんはどう聴いてくれるのか、いつも念頭においてきたが、そのような指標もない今、黙々と一人で登山、あるいは下山している心持ちだ。

篠原 細野さんご自身は、はっぴいえんど時代の作品を今どのように評価されているのでしょうか。あえて点数をつけていただけますか?

細野 「ゆでめん」は「ミュージック・マガジン」で点数をつけられ、まるで試験の採点だった。この採点形式による断定は音楽や映画などには向いていないし、ナンセンスだ。今はその点数を覚えてはいないが、そこそこの及第点だったと思う。しかし点数には関係なく、同誌で「ゆでめん」がアルバム大賞に選ばれたのは、嬉しいことだった。

 過去の作品はすべて、動かせない記録として事実がそこにあったという意味では100点であり、気分次第では0点ということもあり得る。

篠原 はっぴいえんどは「日本語ロックの創始者」といわれます。英語ロック派(ロックは英語で歌うべきであると考えていた人びと)との確執もありました。しかし、はっぴいえんど以前にも「日本語ロック」はありましたし、はっぴいえんど自身もライブではバッファロー・スプリングフィールドの英語カバーをレパートリーにしている時期もありました。その後のYMOは英語詞が主体でしたし、現在の細野さんは、英語、日本語へのこだわりを捨てた音楽活動を展開されています。

細野 70年代の世相は決して明るいとは言えなかったが、個人的には呑気で充実感もあった。その中心になったのが音楽を楽しむということだ。その点で言えば日本語でも英語でもいまだに拘りはない。しかし当時、バッファロー・スプリングフィールドを手本にすればするほど、風土の影響がいい音楽を育むということを学び、はっぴいえんどの最初のテーマとして「日本」を意識したわけだ。日本語対英語論争は音楽誌の評論家が企画したことであり、自分はそこに参加した覚えはない。そもそもグループサウンズは以前から日本語でやっているので、はっぴいえんどが日本語ロックの創始者だというのは、彼らにとって認めがたい「伝説」にすぎない。

 とはいえ、60年代の職業作詞作曲家が作っていたポップスは、米国でも日本でも70年代になり終焉を迎えた。音楽の成り立ちの本質的な変化によって生まれたロックは、それ以前のポップスとは異なる潮流だということだ。ロックを日本語でやることもその一部であり、60年代と同じ文脈では語れない。ちなみにはっぴいえんどはロックなんかではなく、フォークだという意見もある。いやいや「フォーク・ロック」というべきだろう。ただ闇雲に日本語でやっていたら意味のないものになっていただろう。松本隆の文学的素養と大瀧詠一の創造力があったからこそ良い結果が得られたのだと思う。

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